▲鈴木正元騎手、通算2314勝をあげた名手 (提供:M.N.様)
現在、地方競馬はダービーシリーズの真っ只中。5/27の九州ダービーを皮切りに、本日は東京ダービーが行われる。馬券のネット販売の力もあって、経営状況が軒並み上向きとなった地方競馬。しかし、その明るい日差しの陰に、つらい歴史をたどったいくつもの競馬場の存在がある。
2005年に廃止となった栃木県競馬。現在、南関東・金沢・笠松でレース実況を担当する大川充夫アナウンサーは、その地で始めての場内実況の職に携わり、以来、2005年3月の宇都宮競馬廃止まで、そのすべてを見届けてきた。
「廃止から13年が経過し、栃木県に競馬があったことや、地方競馬のトップで活躍する騎手や調教師が栃木県競馬出身である事実を知らない方も増えてきた」。廃止10年をきっかけに、大川アナが元関係者たちから聞き集めてきた真実。最終回の今回は、トップジョッキーとしての意地とプライドを背負って歩む、名手・鈴木正の生き様を紹介。
(取材・文=大川充夫)※本企画は6/4〜6/6の3日間連続でお届けします。
世間から忘れられつつあった名手と、忘れていなかった名伯楽
騎手・鈴木正は1979年デビュー。通算2314勝をあげた名手である。
名古屋競馬でデビュー、数年間は、
「そんなに勝ってなかったし、騎手が50人いたら真ん中くらいだった」
7年目に宇都宮へ移籍。
「紀三井寺だとか、廃止になった競馬場から移籍するひとはいたけど、そうじゃなくただ移籍したのは、ボクが第1号くらいじゃないですか?」
移籍するのに何の障害もなかったという。
のち、宇都宮競馬廃止時に、騎手たちが移籍先を見つけるのに苦労したことを考えると、鈴木の移籍当時は時代がおおらかだったのか、栃木県競馬が鷹揚だったのか。
とにかく鈴木は栃木に移籍。足利・宇都宮の廃止まで、栃木県の騎手として活躍した。
リーディング上位に定着し、重賞も数多く勝った。
鈴木が競馬場の先行きに不安を抱いたのは、新競馬場建設計画が凍結されたときだという。
「県が壬生に土地を買って、まずトレーニング施設をつくって、いずれ競馬場も移転するっていう話でしたよね。競馬場の青写真も見せられて、調教師・騎手・厩務員みんな集められて住居のアンケートをとるところまでやったんです。
持ち家があっても、その新しい施設でアパートを借りたいか。借りるんだったら2DKか3DKか、そういう細かいこともやって。設計図を見れば、走路も厩舎地区・住居地区もできてる。そういうのを見せられたんですよ。その計画が凍結になっちゃった。ガッカリもしたし、これはマズいなと思いましたよ。
用地買うのに莫大な資金を使っちゃった。まだ建設用資金は残ってたけど、売り上げはどんどん下がる、入場者数も減る、資金を切り崩して…ってなってくると、これはもたないなと思いましたね」
他場を見れば何十億円という借金をかかえる競馬場がある。
「宇都宮は競馬場建設資金が貯金としてあったでしょ? 他の競馬場みたいに借金するまでやってくれれば存続できたかもしれないけど、ボクは、栃木県はその方向ではやらないなと思いました」
結局、鈴木の予想どおり、栃木県は競馬場建設資金をある程度切り崩したところで廃止を決定。「廃止にともなう関係者への分配金が残っているうちにヤメたのだ」とは、関係者全員の一致する見解である。
鈴木は騎手を続けようとは思わなかった。
「南関東に移籍できるなら行きたいとは思ったけど、年齢制限があって移籍できなかった。北海道や九州なら移籍できたみたいだけど、そっちへ行く気は起きなかった。それと、ずっと競馬をやってきて、一般の仕事っていうものにもちょっと憧れみたいなものがあったんだよね」
▲リーディング上位に定着し重賞も数多く勝ったが「騎手を続けようとは思わなかった」という (提供:M.N.様)
宇都宮競馬廃止後、県は競馬場内に再就職相談窓口を設けたという。
鈴木はこのとき43歳。
「年齢も年齢だし、中学しか出てないから無理かと思ったんだけど、そこで探してもらったら、『鈴木さんはサービス業が合いますよ』なんて言われてね。結婚式場の仕事を紹介してもらって、面接受けたら採用してくれることになったんだけど」
手取り13万円という額を提示され、
「これは厳しいなと。それで、ああそうか、馬しかないんだなと。収入のことを考えたら経験をいかさなきゃ。これ一筋でやってきたしね」
あらためて再就職先をもとめて競馬場事務所に出入りしていたところ、県内の牧場で乗れるひとを探しているという。
「行ってみたらすぐ採用です」
鈴木正は宇都宮のトップジョッキーである。
乗り手としてこれ以上の人材はない。牧場側は、廃止競馬場へ「実践的に乗れるひとを…」と探しにきて、最高の騎手をスカウトできたことになる。
2011年初頭のある日。
牧場に一本の電話がかかってきた。
「おたくに鈴木正がいるだろう? ウチの馬を連れて行くから、追い切りでぜひ鈴木正に乗ってもらいたい」
電話の主は、船橋の川島正行調教師(当時)だった。「ウチの馬」とは…フリオーソである。
「フェブラリーステークスの追い切りを、ぜひボクに乗ってほしいって指名してきたんだよね。2本乗ったかな。なんで突然ボクのところへきたのかは、今でもわからない」
現役をはなれて数年。
世間からは忘れられつつあった名手を、名伯楽は忘れていなかった。そしてここ一番というところで、その腕前に頼ったのだ。
鈴木正が追い切ったフリオーソは、フェブラリーSで猛然と追い込んで2着。
現在、鈴木と同じ牧場で働く元騎手の粂川京利が、「アレは鈴木さんが乗ってりゃ勝ってるよ」
冗談めかして言うのを、鈴木は笑って聞くのみである。
▲現役時代の鈴木騎手(左)と粂川騎手 (提供:M.N.様)
鈴木はその育成牧場に8年ほどいた。
最後は牧場に不祥事がもちあがって、解散というカタチになり、
「またか…と思いましたけどね。もう今度は迷わずに、また牧場で乗り手を探してるところを見つけようと」
茨城県の牧場へ移り、今にいたる。
牧場では休養にきた競走馬を鍛えなおし、力をつけて送り出す。
名手・鈴木正が乗ることで、馬はまたひとつ強くなってレース場へ帰って行く。
足利競馬・宇都宮競馬の廃止直前、各種手当や賞金は年々引き下げられていた。
それは非常にきびしい条件ではあったが、宇都宮の廃止後も苦しいながらも存続し、やがて現在の好況をむかえることのできた競馬場の中には、もっときびしい条件にまで落ち込んだ経験をもつところもある。
そこまでがんばれば、あるいは宇都宮競馬も存続できたのではないか? 当時も、そして廃止のあとも、多くの関係者がそう指摘するのだが。
「いや、ボクはあれで全然よかった。ジョッキーって、そういう安売りしたくないんですよ。命をはって、一歩間違えば命をなくすような大ケガすることもあるわけじゃないですか。それをあの賞金で…とても考えられない」
▲「ジョッキーは一歩間違えば命をなくす、それをあの賞金でとはとても考えられない」 (提供:M.N.様)
サバサバした表情で廃止を振り返る鈴木はしかし、現役当時さながらの精悍な顔つきにもどって言った。
「ボクは引退してから一度も、どこの競馬場へも行ったことがない。仕事でもプライベートでも。意地というか、どうしても行きたいと思えないんです」
名手・鈴木正にとって所属場の廃止とは、そういうことなのだ。
(文中敬称略、了)