▲7カ月半ぶりに栗東トレーニングセンターで調教に復帰した中谷騎手 (撮影:大恵陽子)
4月8日福島5Rで落馬負傷した中谷雄太騎手が11月17日、7カ月半ぶりに栗東トレーニングセンターで調教に復帰した。第1、2頸椎を骨折し、少しずれていれば命を落としたかもしれないという状況。奇跡的に助かった命がゆえに、「引退」も頭をよぎったという。ベッドで寝た切りの状態で彼はどんなことを感じていたのだろうか。そして今、ふたたび騎手復帰を目指している。彼を突き動かしたのは矢作芳人調教師への感謝の思い。「落馬」と「復帰」、この二つの言葉の陰にある出来事と彼の苦悩とは。
(取材・文:大恵陽子)
落馬当日に起きた2つの奇跡
運命の針が動いたのは春の福島ローカル開催。すでに新馬戦は終了し、3歳未勝利戦に1頭の新馬とともに中谷騎手はレースに挑んだ。馬の名前はルートロアー(牝3、矢作厩舎)。既走馬相手に懸命の走りを見せ、その背中で「1つでも上の着順を」と中谷騎手も奮闘した。しかし、ゴール手前で故障を発症。残念ながらルートロアーは予後不良となり、中谷騎手は勢いよく前に投げ出され、芝の上でピクリとも動かなくなった。
この時、1つめの偶然が起きる。
「ローカル開催時には年に1〜2回しか来られない矢作(芳人)先生が福島にいたんです」
矢作師が中谷騎手のそばに駆け付けると、意識はなく、いびきをかき危険な状態だった。矢作師は何度も中谷騎手の名前を呼び続けた。すると約10分後、意識を取り戻した。
「先生が僕を向こうの世界から呼び戻してくれました。意識はなかったですが、きっと『先生に呼ばれている! 帰らないと』って慌てて戻ったんじゃないですかね」
第1、2頸椎骨折。最悪の場合、命を落とすことも十分にあり得る場所だった。
しかし、ここで2つめの偶然が起きる。
「あとちょっとずれていたら命はなかったかもしれません、と医者から言われました。でも、命はあったし、奇跡的に体に麻痺も残らなかったんです」
首をコルセットで固定し、ベッドから起き上がれない状態が約2週間続いた。
▲最初に搬送された福島の病院での様子 (提供:中谷雄太騎手)
「病院に着いてすぐに『手術はしないで』と伝えていました。意識を取り戻した瞬間から両手両足が動いたから、手術をすると逆に動かなくなるリスクが伴うと思ったので…。手術をできない場所ではなかったかもしれませんが、僕がそう言っていたので医者からもそういう話はありませんでした」
ただただ骨がくっつくのを待つ状況だった。
入院から2週間後、コルセットはつけたままではあるものの東京都内の病院に転院。「首が固定されているのでバランスが取りづらくて歩きづらかったり、他の場所の筋肉が硬直してしまって肩や背中がすごく痛かった」というが、起き上がったり、ゆっくりでも歩けるようになっていた。
勝っている姿をもう一度見せたい
ゴールデンウィークを過ぎたある夜、テレビで障がい者スポーツの特集をしていた。画面の向こうにいたのは交通事故により体に麻痺が残るも、スポーツに打ち込んでいる人だった。
「俺、恵まれているのかもしれないな……」
大きな落馬事故を経験しながらも、体に障害が残らなかったことをありがたく感じた。この頃、彼の頭には「引退」の文字がよぎっていた。
「競馬に乗るのが怖いとは思わなかったです。それよりも、奇跡的に助かった命を大切にしたいなと思ったんです。もしも次に同じような落馬をして体に麻痺が残ってしまったら、『あの時に辞めておけばよかったんじゃないか』って後悔すると思ったんです。人生は騎手を引退した後の方が長いから…」
入院中もレースは見ていたものの、長くベッドの上で過ごす中でいま生かされている奇跡に思いを巡らせていたのだろう。
しかし、季節の移ろいとともに中谷騎手の気持ちに変化が生じ始めた。
「入院している間は矢作先生と深い話は出来なかったのですが、退院後先生が東京に来られた時に食事をしたり、アメリカのキーンランドセールに一緒に行かせていただく中で、落馬した時の状況や当時の先生のお気持ちを聞かせてもらいました。
先生は『俺のせいで雄太をダメにしてしまった』と思ってらしたようなんですが、不慮の事故であり、当然先生のせいじゃないですから。それまでもこれからも、先生には感謝をすることはあれど、恨むことなんてありません。僕が大好きな方で最大の恩人でもある方に、嫌な思いをさせたまま辞められないという思いの方が強くなって、勝っている姿をもう一度見せたいって思ったんです。それで、復帰しようと決めました」
1998年、美浦所属でデビューした中谷騎手は順調に勝ち星を伸ばしていたが、当時3年だった減量期間が切れると、年間勝利数は1桁が続くようになった。2013年秋、矢作厩舎に拠点を置き、栗東に滞在。その後、正式に栗東に移籍すると2016年はキャリアハイの25勝を挙げた。所属厩舎はフリーだが、調教などは矢作厩舎をメインに乗っていた。
「先生がいなかったら、こうして怪我をする前に辞めていたと思います」
最大の恩人・矢作師にたくさん勝つところを見せたいという思いを胸に、巨人の坂本勇人選手も担当するトレーナーの元、トレーニングをスタートした。
「体の使い方が分からなかった最初は出来ないことが多くて、『俺、弱いな』と感じました。でも、トレーニングをしていくうちに出来なかったことがどんどん出来るようになって…」
みるみると筋肉がつき、トレーニングを始めて2週間ほどで別の体に。
「もともと筋肉がつきやすい体質だから、落ちていた体重があっという間に3kg増えました。このままじゃ重くなって乗れなくなると思っていたら、無駄な脂肪が取れて、その後すぐベストな体重に戻りました。いま体の状態はいいと思います」
トレーナーから「もうこれ以上やることはないから、馬に乗った方がいいんじゃない」と言われ、トレセンに戻ってきた。
11月17日土曜日の朝、笑顔を見せながら乗り運動をする中谷騎手の姿があった。休養していた7カ月半の間に矢作厩舎の車の駐車場所など、いろいろなことが変わっていたが、「馬に乗る感覚は変わっていませんでした。『あ、そうそう。馬ってこういう動きするよね』って感じでした」。初日は坂路で2頭に騎乗した。
▲▼11月17日土曜日の朝、笑顔を見せながら乗り運動をする中谷騎手 (撮影:大恵陽子)
レースの復帰目標は12月1週目。
「馬券でファンの方や、成績面で関係者の方に迷惑をかける状態での復帰は考えていないので、今後の状態次第では延ばすかもしれません」という。
落馬をし、怪我を負っても騎手はすぐに元気な姿で競馬場に戻ってくる。それゆえ、不死鳥のように感じることさえあるが、常にこうした命の危険と隣り合わせで勝負をしていることを改めて感じさせられた。
▲恩師・矢作調教師に「勝っている姿をもう一度見せたい」 (撮影:大恵陽子)