あれから8年。歳月を埋める作業はエンドレスだが楽しい
2011年4月に上梓した『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(白夜書房)が電子書籍化されることになった。今、加筆・修正をしているところだ。前田長吉(1923-1946)の兄の孫の前田貞直さんが新たな遺品を見つけ出して判明した新事実を書き加えたり、時間が経過したことによる齟齬の辻褄を合わせたりという作業なのだが、やり出すと、これがなかなか終わらない。
あれから8年。この8年は、東日本大震災が発生してからの8年と言い換えることもできる。
長かったか。それとも、あっ言う間だったか。
46歳だった私は54歳になった。いろいろなことが変わった。8年というのは、やはり長い。
新書版『消えた天才騎手』に、次のような記述がある。
<JRAの現役騎手で、デビュー2年目にダービーで騎乗したのは、1988(昭和63)年の武豊(コスモアンバー、16番人気16着)、92(平成4)年の藤田伸二(ホクセツギンガ、12番人気14着)、97年の和田竜二(テイエムトップダン、16番人気13着)、2000年の北村宏司(マイネルブライアン、13番人気18着)、そして、09年の三浦皇成(アーリーロブスト、18番人気16着)の5名のみ。全員ふた桁人気でふた桁着順に終わっている>
デビュー2年目の1943年に牝馬クリフジで日本ダービーを制し、20歳3カ月の史上最年少優勝記録を樹立した前田長吉の記録がいかに素晴らしいかを強調する目的で、そう記した。ところが、8年後の今、このまま活字になると「誤り」とみなされるようになってしまった。そう、「藤田伸二」が現役ではなくなってしまったからだ。
そこで、次のように書き換えた。
<JRAの騎手で、1984(昭和59)年のグレード制導入以降、デビュー2年目にダービーで騎乗したのは、1984年の増井裕(カミカゼイチバン、5番人気8着)、1988(昭和63)年の武豊(コスモアンバー、16番人気16着)、1992(平成4)年の藤田伸二(ホクセツギンガ、12番人気14着)、1997年の和田竜二(テイエムトップダン、16番人気13着)、2000年の北村宏司(マイネルブライアン、13番人気18着)、そして、2009年の三浦皇成(アーリーロブスト、18番人気16着)の6名のみ。増井以外はふた桁人気でふた桁着順に終わっている>
近代競馬の歴史のなかでも比較的最近でありながら、なおかつ、一定の傾向が出てくる程度には長い期間の区切りとして、いろいろ都合がいいのは、やはり「1984年のグレード制導入以降」ということになる。
こうして自分で調べるまでは、84年以降で、武騎手の前に2年目でダービーに騎乗した騎手はいないだろうと思っていた。それだけに、「増井裕」の名を見つけたときは驚いた。
1964年3月1日生まれということは、私より1学年上だ。私より2学年下が競馬学校の1期生なので、増井元騎手は、馬事公苑の騎手課程の末期のほうの出身ということになる。
栗東・土門健司厩舎の所属騎手として、1983年にデビュー。1999年2月に引退するまで、313勝。うち重賞勝ちは、1987年のデイリー杯3歳ステークス(ダイタクロンシャン)、1988年の阪急杯(サンキンハヤテ)、1990年のシンザン記念(ニチドウサンダー)の3つ。ダイタクロンシャンのデイリー杯は単勝50.7倍という10番人気での勝利だった。次走の阪神3歳ステークスは、勝ったサッカーボーイに大きく離されたものの、2着と健闘した。
彼の最初の師匠だった土門健司(1915-2004)は、騎手として菊花賞や天皇賞を勝つなど活躍し、調教師としてもGI級レースを制しながら、西浦勝一調教師、丸山勝秀元騎手らを育てた。長男の土門一美元調教師は、1984年に日本馬として初めてジャパンカップを制したカツラギエースなどを管理した伯楽だった。
といった周辺情報を眺め「へえ、面白いなあ」とか思っているうちに、びっくりするほど時間が経っているのである。
今、杉花粉からの避難を兼ねて、札幌の生家に来ている。アレルギーのない生活というのは、こんなにも楽なのか。
話は変わるが、さっき、近くの洒落たレストランで食べたスパゲティミートソースが、生涯で口にしたミートソースで一番というほど美味かった。確か、クリームミートソースというメニュー名だったのだが、ソースがクリーム状になっているという意味ではなく、皿にスープ状の白いクリームが薄く敷いてあり、その上にスパゲッティ、さらに上に挽き肉のミートソースが載っているのだ。食べ進めながら変わっていく味を楽しめるのが、またよかった。
本稿を編集者にメールしたら、前田長吉の本の加筆・修正作業に戻りたい。
いや、その前に飯だ。あのパスタを思い出したら、腹が減ってきた。