牝馬として64年ぶりに日本ダービーを制すなど、GI7勝を挙げたウオッカが、蹄葉炎のため4月1日に死亡していたことが同3日に報じられた。繋養先のアイルランドから、イギリスの牧場に移動していたという。15歳だった。
ウオッカは、エレガントな走りとドラマチックな生きざまで、私たちの心をとらえて離さなかった。
2歳だった2006年、新設された阪神芝外回り1600メートルのコースで初めて行われた阪神ジュベナイルフィリーズを、武器である大きなストライドで完勝。時代の波に乗ったとも、時流を味方につけたとも言える圧巻の走りで2歳女王となった。
谷水雄三オーナーと角居勝彦調教師は、デビュー前に五大登録することを決めており、阪神ジュベナイルフィリーズを制した時点では、互いに口にせずとも「ダービー挑戦」を強く意識するようになっていた。
3歳になった2007年、エルフィンステークス、チューリップ賞と連勝し、単勝1.4倍の圧倒的1番人気に支持された桜花賞では、しかし、ライバルのダイワスカーレットの2着に惜敗する。
それでも陣営はダービー出走を決断。牝馬が勝てば1964年のクリフジ以来64年ぶり、出走自体は1996年のビワハイジ以来11年ぶりとなる。
「まるで水島新司の世界ですね」
ダービー参戦を正式に表明した角居師は、そう言って微笑んだ。師がウオッカと重ねてイメージしていたのは、1970年代にヒットした水島氏の漫画『野球狂の詩』に登場する女性初のプロ野球投手・水原勇気だった。水原は細身の美人で、左腕のアンダースローという変則投手だ。水原が球界に新風を吹き込んだように、ウオッカのダービー出走は、「フレッシュなチャレンジ」といった感じで受け止められ、取材に訪れた私も、勇気あるチャレンジに拍手を贈るようなつもりでいた。それがとんでもない見込み違いであったことを、ウオッカに思い知らされることになる――。
2007年5月27日、第74回日本ダービーで、ウオッカは単勝10.5倍の3番人気に支持された。さまざまな媒体で取り上げられて注目されながらこの人気にとどまったのは、私と同じように、
――勝ち負けはともかく、応援しよう。
という気持ちで見ていたファンが多かったからではないか。
結果は周知のとおり。道中は後方の内に控え、4コーナーで鞍上の四位洋文騎手が仕掛けると、1頭だけ異空間を通っているかのような伸びを見せ、2着を3馬身突き放した。ラスト3ハロンは、2年前の2005年にダービー史上初めて33秒台を記録したディープインパクトの33秒4を上回る33秒0。展開に恵まれての勝利などではなく、力で牡馬勢をねじ伏せての圧勝であった。
翌2008年の天皇賞・秋で見せた、ダイワスカーレットとの2センチ差の接戦も凄まじい迫力だった。内で粘るダイワスカーレットが、外からウオッカに迫られると驚異的な二の脚を使い、差し返した。すると、ウオッカもグイッとさらに伸びた。
ゴールした瞬間は、内のダイワスカーレットが残ったのか、外のウオッカが差し切ったのか、まったくわからなかった。リプレイ映像が流れるたびに、場内が沸き、やがて歓声はざわめきに変わった。見れば見るほど、どちらが勝っているのかわからなくなった。
「ゴールした瞬間レジェンドになった」
スポーツライターの故・阿部珠樹さんは、そう表現した。
ゴールしてから写真判定が出るまで13分かかった。その間の場内の雰囲気や、角居師や、その師匠で、ダイワスカーレットの管理者だった松田国英調教師の表情、検量室周辺の異様な興奮、判定結果が出た瞬間の空気の弾け方などは、おそらく死ぬまで忘れないだろう。
馬房でくつろいでいたときの、静かで、深い光をたたえた瞳と、こちらを振り向いたときのしなやかな動き、担当の中田陽之調教助手の胸に顔をうずめたときの愛らしい表情なども、強く印象に残っている。
かと思えば、スポーツ誌の撮影で訪ねたとき、厩舎の前で曳き運動をしているうちに尻っ跳ねが止まらなくなり、驚かされたこともあった。ウオッカは、尻っ跳ねまでストライドが大きく、豪快だった。
また、谷水オーナーが厩舎の洗い場につながれたウオッカを見ているとき、「会長、そこは危ないです。この馬は、そこまで脚が届いてしまいますから」と言われたという。体がやわらかいので、振り回した脚が、普通なら届かないところまで届いてしまうのだ。オーナーブリーダーとして馬の特性を熟知している谷水氏をも驚かせる特別なものを、ウオッカは持っていたのだ。
けっして順風満帆なキャリアではなかった。ダービーの次走の宝塚記念では8着と惨敗し、予定していた凱旋門賞を右後肢の蹄球炎のため回避。秋華賞では3着に敗れ、つづくエリザベス女王杯は当日朝にハ行のため出走取消となった。
さらに、有馬記念で11着、古馬初戦の京都記念では6着、ドバイデューティフリーでは4着と勝利から遠のいた。それでも、ウオッカは、自身の力で復活した。その不屈の強さで、私たちの心を震わせた。
ウオッカがダービーを勝った2007年は、自身の11代母であるフロリースカツプを含む「小岩井の牝系」の始祖となる繁殖牝馬が日本に輸入されてから、ちょうど100年後であった。また、この馬の前に牝馬としてダービーを勝ったクリフジの主戦騎手の前田長吉の遺骨がDNA鑑定で本人確認され、故郷である八戸の生家に「帰還」したのは、前年の初夏のことだった。
自身の偉業により、多くの人の目を、競馬史の大切なシーンに向けさせた。
そして、自身が盛り上げた平成の時代の終わりに世を去った。
繁殖牝馬として渡欧し、7頭の産駒を残した。ウオッカが輝かせた牝系の血は、これからもつながれる。
ディープインパクトを付けてほしかったとか、言ってもせんない思いが次々と湧いてくるが、本当にたくさんの、ワクワクする夢を見せてくれた。
名馬ウオッカ、安らかに。