「ディープインパクトが死にました」
電話でそう報せを受けたとき、相手が何を言っているのか、すぐには意味がわからなかった。
少し経って、首を痛めて種付けを中止していたことや、つい先日、1歳上のキングカメハメハの種牡馬引退が発表されたことなどを思い出し、ディープが世を去ったという現実を受け入れざるを得ないことを悟った。
17歳というのは早すぎる。「誰かが死ぬのはみな寿命なんだよ」という尊敬する人の言葉を思い出し、自分を納得させるしかなかった。
午後の早い時間、NHKの「ニュースウオッチ9」のディレクターから連絡が来た。ディープに関する印象的なエピソードや、思い出すシーンなどはないかと訊かれ、答えたのが、ここに載せた写真のシーンだった。
2005年夏、札幌競馬場に滞在していたディープインパクト。左は市川明彦厩務員。
調教やレースのあと、体を洗われ、アイシングをするとき、ディープはいつもこんなふうに目を閉じてウトウトしていた。担当していた市川明彦厩務員によると、馬にとってアイシングは嫌な時間なので、「寝るぐらいしかすることないよ」という意味の「フテ寝」なのだという。
競馬場で十数万人を熱狂させた驚異的な走りを見せたスーパースターと、「耳を絞って、文句ありげに目を閉じている一頭の馬」という姿のギャップが微笑ましく、こうしているところを見るたびに、「ああ、ディープだな」と嬉しくなった。
毎日調教に騎乗していた池江敏行調教助手も、このシーンをよく思い出すと話していた。ほかにこんなふうに洗い場でフテ寝をする馬は見たことがないという。
電話で「ニュースウオッチ9」のディレクターと30分ほど話し、「ディープインパクトという競走馬、種牡馬は、日本の競馬界にとってどんな存在だったか」「ディープは日本の競馬界をどんなふうに変えたか」といったことを、競馬に詳しくない人にもわかるように伝えた。さらに、仕事場に深川仁志アナウンサーが来て、カメラを回しながら1時間半ほどしゃべった。オンエアで使われたのは1分から1分半ほどだったが、ディープの死がトップニュースだったのを見て、ディープの「社会的存在」としての大きさを、あらためて認識させられた。
私は、その前日、3泊4日の相馬野馬追取材から戻ったところだった。
前回の本稿に記したように、今年は、集英社文庫の私の担当編集者ハンちゃんと、同編集長のE氏、時代小説家の矢野隆さん、矢野さんの担当編集者H君も一緒に動いた。そこに『さっ太の黒い子馬』で2016年度JRA賞馬事文化賞を受賞した小俣麦穂さんとお友だちの歴女も加わり、小高郷侍大将の今村忠一さんと、息子で螺役の今村一史さん、今年から軍者となった蒔田保夫さんらの出陣を見送った。
初めて野馬追を見る知り合いが、騎馬武者がアスファルトの上を駆ける迫力に声を上げたり、「申し上げます」「承知!」といったやり取りを楽しそうに眺めているのを見ると、私まで嬉しくなった。
近くにいた馬が暴れたとき、若手編集者H君は、担当作家や上司を差し置いて、自分だけ驚くほどの素早さで逃げた。その逃げっぷりをみんなで冷やかし、腹が痛くなるほど笑った。
29日、月曜日の野馬懸のあと、相馬小高神社で小高郷の神旗争奪戦が、東日本大震災の前年以来9年ぶりに行われた。父親が獲った神旗を譲り受け、馬上で景品を受け取った5歳の騎馬武者が涙を流していたのを見て、矢野さんも泣いていた。
私は毎年ひとりで来ていたので、「仲間たちと見る野馬追というのも楽しいものだな」と、今年初めて気づかされた。
今年も、伝統の祭の舞台で、元気に第2、第3の馬生を送っている元競走馬たちに会うことができた。
今週はそのフォトリポートにしようと思っていたのだが、それは来週にしたい。
最後に、フテ寝をしているディープの様子がわかる写真をもう1枚。
2005年夏、札幌競馬場にて。アイシングしている間は、置物のようにじっとしている。
ディープインパクトの走りをこの目で見ることができて、本当に幸せだった。「持って生まれた能力を発揮する」ということの意義と素晴らしさを、ディープは「飛ぶ走り」で私たちの心を揺さぶり、教えてくれた。
その血を宿した駿馬が、凱旋門賞のゴールを先頭で駆け抜けるシーンが現実となることを願いながら、これからも競馬を見つづけていきたい。
ディープインパクト、安らかに。