今回の舞台、井ノ岡トレーニングセンター(提供:江川聡子さん)
馬が忘れられず…育成牧場を開場
JRA美浦トレーニングセンターやあみプレミアムアウトレットからほど近い茨城県牛久市井ノ岡に、競走馬の育成牧場・井ノ岡トレーニングセンター(以降井ノ岡トレセン)がある。競走馬の育成、休養が主な業務だが、引退した競走馬たちが乗馬として第二の馬生を歩めるよう、乗馬へのリトレーニングにも取り組み、これまで15頭近くをセカンドキャリアへと送り出している。
そのリトレーニングを受け、井ノ岡トレセンでスタッフの練習馬として活躍しているのが、カネノイロ(セン8)だ。同馬は江川伸夫さんの所有馬としてJRAで3勝を挙げたのちに地方へ移籍し船橋競馬でも走った。そしてカネノイロの馬主・江川伸夫さんこそが、井ノ岡トレセンの経営者でもある。
「父は脱サラをして馬の世界に入りました」
そう話すのは、江川さんの長女で井ノ岡トレセンに勤める聡子さんだ。
「父は子供の頃から競馬中継が大好きだったそうです。高校生の時には乗馬クラブに通って、進学した岩手大学では馬術部に所属していました。大学を卒業して会社員になりましたが、馬が忘れられず、夫婦で千葉県の育成牧場で働き始めたと聞いています」
牧場で経験を積んだのち、聡子さん誕生と同じ時期に井ノ岡トレーニングセンターを開場。以来、伸夫さん自ら馬に跨って調教をつける日々が続いた。
競走馬の育成、休養を主な業務とする井ノ岡トレセン(提供:江川聡子さん)
「元々養老馬が2頭いたのですが、その馬たちが天寿を全うする頃には俺も引退だと以前から父は話をしていました」
養老馬2頭のうち1頭は、江川さん所有で走らせていたサンクスメモリー。
「成績も良かったですし、大人しかったので、牧場で練習馬として最後まで面倒をみました」
サンクスメモリーは父カコイーシーズ、母ミスマルゼンスキー、母父マルゼンスキーという血統で、JRAからデビューし、その後地方競馬に移籍。高崎競馬場の重賞・東国賞優勝をはじめ、交流重賞にも参戦するなど、66戦14勝という好成績を残している。
「もう1頭は調教師を通じてウチにやって来たギャラントロード(父アレミロード、母ギャラントルックス、母父ノーザンテースト)という馬です。この馬も大人しかったので、牧場の練習馬になりました」
そしてもう1頭、繁殖馬となったフレンドパーク(父アイネスフウジン、母テイルコート、母父スイフトスワロー)という馬も、最後まで面倒をみると江川さんが決めた1頭で、その産駒は江川さんの所有馬としてデビューしている。
「父もこの仕事をしていく以上、ある程度割り切って見切りをつけざるを得なかったと思うのですが、この3頭を最後まで面倒みるのが恩返しと言いますか、それで自分の中で踏ん切りをつけてきたのではないかと思います」
井ノ岡トレセンで活躍しているカネノイロ(提供:江川聡子さん)
サンクスメモリーとギャラントロードは残念ながらこの世を去ったが、明け28歳のフレンドパークは元気に北海道の牧場で余生を送っているという。
恐らく井ノ岡トレセンにも、短期長期含めて数え切れないほどの馬が開場以来入厩してきたはずだ。ひとたび入厩すれば、どの馬にも愛情をかけて、競馬で良い成績が残せるよう調教をし、心を込めて世話をする。だがそのすべての命を繋いでいくことは不可能だ。そう理解していても、割り切って見切りをつけるのは精神的負担も大きいと推測される。レースで賞金を稼いだり出走手当が出ない馬たちを飼養するのは、経済的負担が大きい。その中で3頭の面倒を最期までみてきたのは、伸夫さんの馬に対する敬意であり、愛情であり、感謝の気持ちの表れのように感じた。
その伸夫さんが60歳を前にした数年前に、落馬をして大怪我を負ってしまった。引退の2文字が聡子さんの脳裏をよぎった。父が脱サラをしてまで情熱を傾けてきた牧場を何とかしたい、牧場をなくしたくないと思った聡子さんは、4年前に小学校の教員を辞めて、父の仕事を手伝い始めた。
育成牧場経営者の娘として育った聡子さんは、10歳から20歳までの10年間、乗馬経験があった。だが20歳以降、一切馬に関わることはなかった。長いブランクを経て、馬との関わりが再び始まった。
(つづく)
▽ 井ノ岡トレーニングセンターインスタグラム
https://www.instagram.com/inookatrainingcenter/