先週の答えを探しているうちにわかったこと
今回も先週に引き続き、競馬場に右回りと左回りがあるのはなぜ?について。確かな答えを探しているうちに、いろいろなことが明らかになってきました。
まず、かつては札幌競馬場が左回りだった、という話から。思ったとおり、それはアメリカ競馬の影響によるものでした。でも、そこにはけっこうな紆余曲折があったんです。
明治初期に札幌での競馬が始まった時、レースは公道に設けられた直線コースで行われました。それが、今の北海道庁近くにあったホップ園を周回する形になり(どっち回りだったかは不明)、さらに専用の常設馬場を作ろうということで、1878(明治11)年、開拓使(札幌)育種場に競馬場が造成されました。
この指導にあたったのがエドウィン・ダンという人物。北海道開拓使が招いたアメリカ生まれの“お雇い外国人”で、本国では競走馬や肉牛の育成を学んでいたそうです。
アメリカ人が指導した、となれば、アメリカ競馬のように左回りのコースができるのは当たり前。同競馬場はもちろん、これを移転させた1887(明治20)年開設の中島公園競馬場も左回りになりました。
しかし、1907(明治40)年に今の札幌競馬場ができた時には、すでにダンの影響は薄れていたようで、東京周辺の根岸や池上の競馬場と同様、右回りに変わります。
とはいうものの、このコースの決勝線は正面走路の真ん中に設けられました。そのため、左右どちらの回りでレースをしても、“最後の直線”の距離はほぼ同じだったのです。
そこで札幌では、“先代”からの伝統でもある左回りのレースも実施しました。その証が、古い競走成績書などにある「左手前」という但し書きです。
また、1931(昭和6)年8月14日の開催に澄宮(後の三笠宮)殿下が来場された際、北海タイムスは「札幌競馬特有の左手前(左廻り)競走には特に御興深く拝された」と報じています。今の東京競馬場ができる前、左回りレースは札幌の“名物”だったようです。
札幌競馬は太平洋戦争により中断。戦後は1946(昭和21)年7月に再開されます。これは、進駐軍主催のアメリカ独立記念日を祝う競馬会でした。進駐軍は戦時中に畑になっていたコースをたった1日の突貫工事で整備します。
彼らが手がけたとなれば、本国と同じようにするのがまたまた当たり前。それで札幌は、ダンの頃に戻って左回りになったのです。
ついでに言うと、その後、4コーナーに合流するシュートを新設。“逆ヘの字型”ではあるものの、ほぼ直線コースを走る800メートル戦と、直線+1周の2400メートル戦が実施されました。
そして1975(昭和50)年、札幌は右回りの競馬場に生まれ変わり、今に至っています。
今回は札幌の話だけで目一杯になっちゃいました。続きはまた来週。でもひょっとすると、このテーマをあと1回で完結させることはできないかもしれません!