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戦争と競馬

  • 2022年03月24日(木) 12時00分
 ロシアがウクライナに侵攻を開始してから、本稿がアップされる3月24日で4週間になる。罪もない民間人が命を落とすニュースは見ていてつらい。一刻も早い停戦、終戦を望むばかりだ。

 私たち日本人にとっても、隣国のロシアが起こした戦争は人ごとではない。我がこととしてとらえ、何らかの我慢を強いられたり、リスクを負わされたりする覚悟を、心のなかで固めておくべきなのだろう。

 かつて、遠い異国での戦争が、日本の競走馬のキャリアに大きな影響を及ぼしたこともあった。ひょっとしたら、一頭のサラブレッドの馬生のみならず、日本を含む世界の競馬史を変えていた、と言えるのかもしれない。

 その戦争とは、19年前のちょうど今ごろ、2003年3月20日に勃発したイラク戦争である。アメリカを中心とする数カ国の有志連合が、イラクが世界の安全を脅かす大量破壊兵器を保有しているのに査察を受け入れないからと侵攻を開始した。が、結局、大量破壊兵器は見つからなかった。

 そして、イラク戦争によって馬生を変えられた馬というのは、その前年、02年にJRA賞最優秀ダートホースとなったゴールドアリュール(牡、父サンデーサイレンス、1999-2017)である。

 02年の日本ダービーで5着となったのちダート路線に転向し、武豊騎手を背にジャパンダートダービー、ダービーグランプリを圧勝。中山で行われたジャパンカップダートこそイーグルカフェの5着に敗れたが、東京大賞典と、03年初戦のフェブラリーステークスを完勝。3月29日にUAE・ドバイのナドアルシバ競馬場で行われる第8回ドバイワールドカップに参戦することが決まっていた。

 しかし、同じ中東で始まったイラク戦争のため渡航できなくなり、遠征を断念せざるを得なくなった。

 ドバイワールドカップから矛先を変えて向かったのは、4月27日に京都で行われたGIIIのアンタレスステークス。そこでゴールドアリュールは、別定の59kgという酷量を背負いながら2着のイーグルカフェを8馬身突き放して圧勝した。次走の帝王賞で11着に大敗したのち、喘鳴症(ノド鳴り)を発症している事が判明。現役を退くことになった。

 言ってもせんないタラレバだが、アンタレスステークスでの恐ろしいほどの強さを見ると、まさにキャリアのピークに達していたあの時期にドバイワールドカップに出走できていたら――と思ってしまう。

 種牡馬として、エスポワールシチー、スマートファルコン、コパノリッキー、クリソライト、ゴールドドリーム、クリソベリルなど、数々のGI・JpnIホースを送り出して大成功したことは周知のとおりだが、ドバイで大きな勲章を手にしていれば、国内外のオーナーが所有する良血牝馬との交配がもっと増え、さらに上の域に達していた可能性もある。

 イラク戦争から4年後の07年、馬インフルエンザのため、前年の二冠馬メイショウサムソンが凱旋門賞出走を断念したときも、似たような思いを抱いた。メイショウサムソンは、凱旋門賞に代わって出た天皇賞・秋で、生涯最高と言うべき圧巻のパフォーマンスで勝利をおさめた。翌08年の凱旋門賞には出走することができたが、前年秋の状態には遠く及ばず、10着に終わった。

 「好機」とか「チャンス」などより、もっと幅が狭くて、時期も短い「そのとき」とでも言うべきピークが、競走馬にはある。

 それがスタートのタイミングと一致しなければ、ドバイワールドカップや凱旋門賞など、世界のGI中のGIと言うべきレースは勝てないのだろう。

 戦争と競馬というと、太平洋戦争終結後、旧ソ連に抑留され、シベリアの強制収容所で戦病死した最年少ダービージョッキーの前田長吉が思い出される。1946年2月28日、長吉は23歳の若さで世を去った。

 来年、2023年は長吉の生誕100年の節目となる。

 長吉の師匠である尾形藤吉が、今年生誕130年を迎えることにちなみ、10月8日から東京競馬場内の競馬博物館で特別展「尾形藤吉〜“大尾形”の系譜〜」が開催される。

 来年、長吉に関する展示をしてもらえると嬉しいのだが、実施されなくても、雑誌で特集を組むなど、私にできることをしようと思う。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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