本稿がアップされる5月18日の木曜日、スポーツ誌「Number」の競馬特集号が発売される。私は、宮城の山元トレーニングセンターの記事と、浦河の谷川牧場の記事を執筆した。
山元トレセンの上水司場長とは、1994年に武豊騎手がホワイトマズルでキングジョージVI&クイーンエリザベスステークスに参戦したとき、イギリスでしばらく一緒に行動したことがあった。以降、上水さんとは時折競馬場で顔を合わせ、活躍ぶりは知ってはいたが、取材という形で膝を突き合わせて話すのは今回が初めてだった。
そもそも、私が山元トレセンを訪ねたこと自体、実は初めてだった。年に何回か福島の相馬や南相馬には行っており、少し北上したところにある山元トレセンにいつか行きたいと思っていたのが、やっと叶った。天気にも恵まれ、放牧中のソールオリエンスに会うこともできたし、とても有意義な取材をすることができた。
社台ファームの外厩として知られる山元トレセンが開場したのは1992年。2011年3月11日に東日本大震災が発生したときは、津波で家屋が坂路コースのスタート地点まで流されてきたり、停電と断水のため馬に与える水を井戸からくみ上げることができなくなったり、土手が崩れて厩舎が1棟使えなくなったりと被災した。
当時は社台ファームとノーザンファームがここを使用しており、社台の責任者だった袴田二三男さん(現・顧問)は、震災当日、業者から発電機を借りてきて井戸を動かし馬に水を飲ませることができるようしたり、数日後にもっと大きな発電機を借りてウォーキングマシーンを使えるようにしたりと、「馬優先」で復旧を目指した。袴田さんの部下として動いていた上水さんの自宅も浸水する被害を受けたという。
発災から10年後、2021年2月13日の夜にも一帯は大きな地震に見舞われた。山元町は震度6弱だったが、山元トレセンに隣接する福島の新地町が震度6強だったので、後者に近い揺れだった可能性もある。そのときも建物の壁に亀裂が入ったり、厩舎の入口に段差ができたりするなど被害があった。
また、昨年3月16日の夜にも大きな地震があり、山元町は震度6弱の揺れだった。
一昨年は2月、昨年は3月に大きな地震が来たので、今年は4月に来るのではないかと地元の人々は心配していたようだが、幸い、何事もなかった。
ネオユニヴァース、ダイワメジャー、ダイワスカーレット、イスラボニータといった数々の名馬がここ山元トレセンで鍛えられ、競馬場で素晴らしいパフォーマンスを発揮した。
「Number」の記事では、ソールオリエンスがここで力をつけていくプロセスを、上水さんの言葉で追った。
もう1本は名門・谷川牧場の物語。今年は皐月賞で1番人気に支持され3着となったファントムシーフをダービーに送り出す。鞍上は、ダービー最多勝記録を持つ武騎手に決まった。同馬が勝てば、谷川牧場の生産馬としては、実に50年ぶりのダービー制覇となる。
代表の谷川貴英さんは、1964年生まれ。私と同い年である。50年前、実家の生産馬がダービーを勝ったとき、谷川さんは小学校3年生だった。そこから50年の物語を、谷川さんの言葉を中心に、牧場スタッフにも話を聞いてまとめた。
50年前、1973年のダービーを制した谷川牧場生産馬はタケホープだった。圧倒的1番人気だった国民的スターのハイセイコーを3着に下しての勝利だった。
その一戦が世間に与えたインパクトは大きかった。当時中学3年生だった田原成貴さんは、そのレースを島根の実家のテレビで見ており、ゴール後、タケホープの背で拳を突き上げる嶋田功騎手(当時)を見て、「わしも騎手になる!」と心に決めたという。
国民的スターのハイセイコーを負かしてしまったため、タケホープは「悪役」のような見方をされた。それは谷川さんも感じていた。
昨年の中山大障害を制したニシノデイジーも谷川牧場の生産馬だった。1番人気だったのは、これがラストランだった「障害界の絶対王者」オジュウチョウサン。オジュウは6着に終わった。
あのとき谷川さんは、同じようにスーパースターを負かして「悪役」のような役回りになってしまったタケホープのダービーを思い出したという。
意外なところで、歴史は繰り返されていたのだ。
ダービーでもまた歴史が繰り返されることになるのか。それとも――。
テン乗りでダービーを勝ったのは、第3回(1934年)のフレーモア(3戦目)、第5回(1936年)のトクマサ(6戦目)、そして第21回(1954年)のゴールデンウエーブ(16戦目)と、そう多くはないが、ゼロではない。ファントムシーフにももちろんチャンスはある。
今年のダービーは、濃い見どころが実に多い。オークスも楽しみだが、さらに楽しみである。