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第2話 救える命

  • 2012年06月11日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市のサラブレッド生産牧場・杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。翌朝、代表の杉下将馬は、津波にさらわれた繁殖牝馬を探して海辺に行き、一頭の馬を見つけ出した。

『救える命』

 大きな海水の水たまりの真ん中で立ち上がった馬は、じっと将馬を見つめていた。そして、一度大きく頷くようにしてから、将馬のほうへと脚を踏み出した。2歩目を踏み出したとき、底がえぐれて深くなっていたのか、顔から飛び込むように転倒した。

 馬はすぐにまた立ち上がり、こちらに向かって歩いてくる。

 朝日を背にした馬の毛色は、全身にこびりついたヘドロのせいで判然としない。

 馬は将馬の目の前で立ち止まり、ヘドロで黒くなった顔をそっと彼の左肩に乗せ、グーッと鳴いた。

 この仕草と声、ふくらんだお腹……間違いない。

「シロ、生きていたのか」

 将馬はシロことブライトストーンの首筋を撫でてやった。ぬるりとした感触とともに、指の間から汚水がしたたり落ちる。晴れてはいるが、南相馬の3月は冬の寒さである。このままではシロが風邪をひいてしまう。

「タオルか何か……」

 と、消防団の友人に言いかけた言葉を、将馬は呑み込んだ。

 友人はこちらに背を向け、スコップをテコにして瓦礫を持ち上げ、しばらくその下を覗き込んでいた。ゆっくり振り向いた彼の目は真っ赤になっていた。

 彼のように、人の命のために体を張っている者たちがすぐそこにいるというのに、自分は馬を助けようとしている――。

「杉下、早く行け」

 友人が消え入るような声で言った。

「いや、でも……」

「いいから、連れて行ってやれ。同じ命だ。それに、そいつは生きている」

 と、彼は再び瓦礫に向き合い、今度は手で丁寧に木の枝や鉄板などを取り払う作業を始めた。下に遺体を見つけたのだろう。

「す、すまない」

 シロを曳いて歩きながら、友人の心遣いに対する感謝が深まるほどに、本当にこれでいいのだろうか、という思いも強くなる。

「同じ命だ」という彼の言葉が救いになった。自分に救える命があるなら救う――今の将馬にできるのはそれだけだった。

 牧場までの帰路、見覚えのあるナンバーのクルマが何台も横転していた。鉄柱がなぎ倒され、テトラポットや漁船が海岸通りのずっと内陸まで流されているのを見て、津波の力の凄まじさを思い知らされた。

 杉下ファームに戻った将馬は、あらためて海のほうを見回し、呆然とした。何かおかしいと思ったら、防風林になっていた海岸通り沿いの松並木がなくなっているので、それまで見えなかった砂浜を見通せるのだ。

 その場にへたり込みそうになった将馬の背を何かがドンと叩いた。シロが胸前をぶつけてきたのだった。

 シロは犬のように地面に鼻をつけながら、土台だけが残る厩舎に行き、自分の馬房があったところに立って、前ガキをした。ひょっとしたらと思い、床に散らばっていたゴミをかき出してやったら、シロは壁や屋根があったときと同じように「自室」に入った。

「そうか、やっぱり自分の家が落ちつくんだな」

 洗い場の蛇口が残っていたのでひねってみたが、水が出てこない。

 夕べ泊まった避難所は、電気、ガス、水道など、ライフラインはすべて無事だった。

 ――シロの飲み水と、体を洗ってやるための水をとりに行かなきゃ。

 将馬が軽トラックのドアに手をかけたちょうどそのとき、白いワゴンが敷地に入ってきた。父のクルマだ。

 父は荷室からポリタンクをふたつとり出し、

「お前が馬を曳いていると知らせてくれた人がいてな」

 とシロの馬房の前に置いた。タンクには水が入っていた。さらに、バケツや毛布、スコップなどのほか、ずた袋に入った飼料を持ってきた。

「これは……」

「郷の仲間が分けてくれたんだ」

 この地域は千年以上の伝統を誇る馬の祭り相馬野馬追の「小高郷」というエリアになっており、馬を飼育している小高郷騎馬会のメンバーが譲ってくれたのだ。

「よかったな、シロ」

 将馬がシロに水を飲ませて体を拭き、バケツに入れた飼料を与えてやると、父は、口に含んだ焼酎をシロの脚元に吹きかけた。

「たいした怪我はしていないようだが、念のため消毒だ。ほかの2頭は?」

「わからない……」

「そうか。この馬も早くどこかに移動させたほうがいい。1F(イチエフ)が、報道されている以上に危ないそうだ」

「原発が?」

「ああ。どうやら……」

 父の声に、ドサリという音が重なった。

 シロが体を横たえている。

「どうした、シロ!」

 シロの体を揺すろうとした将馬を制して、父が言った。

「参ったな。生まれるかもしれないぞ」(次回へつづく)

▼登場する人馬
杉下将馬…杉下ファーム代表。前年牧場を継いだばかりの23歳。
将馬の父…杉下ファームの先代。
ブライトストーン…芦毛の繁殖牝馬。愛称シロ。シルバーチャームの仔を宿している。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

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作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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