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東日本大震災から5年、被災馬の今(後編)

  • 2016年03月19日(土) 12時00分


 あれから5年――。

 ホーストラスト北海道代表の酒井政明さんは、行き場を失った馬を引きとるため、水と牧草と燃料を積んだ馬運車のハンドルを握った。東日本大震災が発生してから3週間後、2011年4月1日のことだった。

 目的地は福島県南相馬市。

 もっと早く行きたいと思っていたのだが、このときまで函館−青森間のフェリーを押さえることができなかったのだ。

 東北自動車道を南下し、途中のサービスエリアで仮眠をとり、4月2日の午前中、南相馬に着いた。

 訪ねたのは、現地で農業を営む佐藤功さんのもとだった。当時62歳。かつて馬術の選手だった佐藤さんは、前年まで40年ほど相馬野馬追に参加していた。

 しかし、東京電力福島第一原子力発電所事故により、人も馬もそれまでのような生活ができなくなった。

 佐藤さんは、酒井さんが被災馬受け入れを表明していることを知人を通じて知り、ともに野馬追に出ていた所有馬を北海道に避難させることにしたのだ。

 南相馬の人々は、地震と津波、原発事故、そして風評被害と、さまざまなものに苦しめられていた。そのうえ、家族や愛馬と離れて暮らさなければならないのは、どれだけつらいことか。

 そう心配していた酒井さんを佐藤さんは明るく迎え、「腹が減っただろう」と、インスタントラーメンをつくり、玉子を落としてくれた。物資が不足していた時期である。佐藤さんのそんな優しさに、元気づけるつもりだった酒井さんは逆に元気づけられた。

 さらに佐藤さんは、もっと現地を見て行ってはどうだと、軽トラで、津波に襲われた地域も案内してくれた。瓦礫のなかで亡くなっている人や、走り回っている犬や牛がいた。

 酒井さんは、現地入りするまで、どんな馬を北海道に連れて帰るのか、まったく知らされずにいた。

 佐藤さんの愛馬は、野馬追に出る仲間たちと共同で使っている厩舎にいた。

 2頭いたうちの1頭を酒井さんが連れて帰ることになった。それが元競走馬のウルヴズグレン(当時牡12歳)だった。千歳の社台ファームで生産され、現役時代は美浦の小桧山悟厩舎で管理されていた。父ティンバーカントリー、母は4歳牝馬特別、ローズステークスなどを勝ったサイレントハピネス。通算51戦5勝という成績を残した。

 ウルヴズグレンは、怪我もなく、少し腹をすかせている程度で、元気だった。

 グレンを馬運車に乗せ、帰ろうとした酒井さんに、佐藤さんが「ちょっと待っていてくれ」と20分ほどいなくなった。戻ってきた佐藤さんは、1本の缶コーヒーを手にしていた。わざわざそれだけを買ってきてくれたのだ。

 グレンを連れた酒井さんは、4月3日の朝、ホーストラスト北海道に帰ってきた。

熱視点

ウルヴズグレンがホーストラスト北海道に来てからひと月半ほど経った2011年5月19日、酒井さんと。


 自分につづく人が出てほしいと酒井さんが思っていたら、その願いどおり、馬運車で被災馬を北海道に連れてくる人たちが現れた。そうして南相馬から北海道に避難してきたうちの1頭が、4月27日にホーストラスト北海道に来たタガノムゲンだった。

熱視点

手前がウルヴズグレン、その隣がタガノムゲン。2011年5月19日撮影。


 タガノムゲンは、再び相馬野馬追に出場するため、翌12年の春、持ち主である渡部孝信さんのもとに戻った。

 一方、今年17歳になったウルヴズグレンは、今もホーストラスト北海道の共和町の厩舎にいる。蹄葉炎を患ってはいるが、元気に日々を過ごしている。酒井さんが「マイペースな性格で、肝が据わっている」と言うとおり、寝ているところにカメラを向けても我関せずという顔をしていた。

熱視点

馬房で気持ちよさそうに寝そべっているウルヴズグレン。2016年3月8日撮影。


 未曾有の被害をもたらした震災と原発事故から5年が経ったが、今も元の住まいに帰ることのできない人と馬がたくさんいる。

 自分に何の非もないのに、「日常」という当たり前にあるはずのものを奪われた苦しみは、どんなものなのか。

 それを私たちに考えさせてくれるのが、ウルヴズグレンやアドマイチャンプなどの被災馬たちだ。彼らが愛らしく、元気であるがゆえに切ないのだが、ともかく、またその姿を見に行きたいと思う。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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