▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の杉下ファームは、2011年の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。仔馬は「キズナ」と名付けられた。美浦の大迫調教師とともに訪ねてきた後藤田オーナーによって1億円で購入されたキズナは、かつての一流騎手・上川を鞍上に迎えた。一度はライバルに敗れるも、朝日杯FSを勝ち、翌2014年クラシック三冠の第一弾、皐月賞も制す。その直後、世界一の大オーナーから、破格のトレードの申し出を受けた。
『優駿へ』
上川博貴が美浦・大迫厩舎の事務所の扉に手をかけると、中から大きな笑い声が聞こえてきた。
間違いない。キズナのオーナー、後藤田幸介の、かすれているが、よく通る独特の声である。
――どうして後藤田オーナーがここに?
近くにベンツやレクサスなどそれらしきクルマがないので、お忍びで来た、ということだろうか。
マスコミ関係者から中が見えないよう、ほんの少しだけ扉をあけ、体を滑り込ませた。
「おお、上川君、おはよう。ようけマスコミが集まっとるようやな」
かすかに笑っているようにも、睨みつけているようにも見える後藤田の視線は、まったく揺らぐことなく、上川の頬のあたりに注がれている。こんなふうに相手を注視しながら力関係をはかるのが、ここまでのし上がった彼の習い性となっているのだろう。
「はい。オーナーがここにいると知ったら、大変な騒ぎになりますよ」
「そやな。決まったことは早う発表せんと、妙な噂が流れてしまうわ」
「決まったこと……」
キズナをハマダン殿下に30億円で売却することが決まった、ということか。
上川は脱力してすべり落ちそうになった上体を、やっとの思いでソファの背もたれに押しつけて、息をついた。
「では、オーナー、お願いします」
と大迫が立ち上がり、出入口を手で示した。
「お願いって、何を言うとんや。大迫君が記者の前で発表しなはれ」
「トレードに関することを調教師だけで話すのは……そうだ、上川も一緒なら、オーナーも出やすいでしょう」
「そやな、ほな、上川君」
後藤田の分厚い手で肩を叩かれ、上川はふらつくように厩舎事務所を出た。
空を見上げ、倒れないよう両足を踏ん張り、何かのスイッチを入れるようにいつもの自分に戻ろうと前を見たら、ものすごい数の報道陣に囲まれていた。洗い場の手前には、内海真子ら厩舎スタッフも神妙な顔つきで並んでいる。彼らもこの「重大発表」を待っていたのだろう。
大迫が口を開いた。
「一部報道でご存知かと思いますが、キズナのトレードに関して、後藤田オーナーのほうから発表していただきます」
後藤田が一歩前に出て、先刻と同じ目を、まず上川に向けてから胸を張り、大きく咳払いをした。
「ハマダン殿下から、30億円でキズナを譲ってほしいというオファーがありましたが、お断りしました」
厩舎がざわめきに包まれた。いつの間にか報道陣にまじって他厩舎の関係者も大勢集まっていた。後藤田がつづけた。
「丁重にお断りするつもりが、わしが駆け引きをしとると思うたんか、向こうが『それなら50億出す』と言うてきたので、『ふざけるな』とお引き取りいただきましたわ。ワハハハ!」
記者から「なぜですか」「迷いはなかったのですか」などの質問が出た。
「迷うわけがないでっしゃろ。ケンタッキーダービーに使うなら、わしの馬として使いますわ。でも、今、わしはアメリカのダービーより日本のダービーを勝ちたい。それだけのことです」
と、後藤田は、また上川の頬のあたりに視線を送ってきた。今度は確かに笑っていた。
朝日杯と皐月賞を勝ったのだから、上川にとって特別な馬であって当然だが、それ以上のものをキズナには感じていた。上川のGI勝ちの半分近くが代打騎乗で、しかも、どういうわけかデビュー戦から乗ってGIを勝ったのは牝馬ばかりだった。騎手として20年近いキャリアがありながら、新鮮で、未知の怖さと面白さのあるさまざまな経験をキズナのおかげですることができた。
その相棒を失うかもしれないと思ったとき、途方に暮れるほど深い喪失感を覚え、自分にとってのキズナの大きさを思い知らされた。
一度胸にあいた大きな穴が再びキズナの存在によって埋まり、さらにあたたかいものが溢れ出てくる。全身に少しずつ、力がみなぎってくるのを感じた。
*
杉下将馬は、軽トラックの荷台に立って思いっきりハンマーを振り下ろした。この手製の看板を入口に立てれば、新生・杉下ファームは一応完成となる。
キズナの売却代金の1億円は、綺麗さっぱりなくなった。
20馬房の厩舎を新設し、その横に自分と従業員の住む家も建てた。厩舎は、北海道の大牧場のそれをまね、中に洗い場と装鞍所のある北国仕様のものにした。
友人から譲り受けた土地に1周1200メートルのダートコースをつくった。
それはいいのだが――。
ここには馬もいなければ、将馬以外の人間もいない。両親にも声をかけたのだが、ふたりとも今の住まいのほうが仕事に都合がいいからここに住むつもりはないという。
――しばらくはおれひとりで、野馬追に使う馬でも預かるしかないか。
将馬は、東の海岸線を見下ろした。かつて見事な松並木があった海浜公園は、綺麗に整地されてはいるが、何か新たな施設が建ちそうな気配はない。南に目を転じると、漁港の向こうに福島第一原子力発電所が霞んで見える。
3年前、生まれたばかりのキズナと、白煙の上がる原発を見つめた日のことが思い出された。
事故を起こしたあの発電所は、将馬が生まれたときにはすでに稼働していた。物心つく前から、赤と白に塗り分けられた鉄塔や、その脚元に並ぶ建屋を眺め、それがあるのが当たり前のこととして育ってきた。
ここは自分を生んだ土地、育んだ土地、すなわち自分が帰ってくるべき土地である。簡単に切り離すことなどできない。
それはキズナにとっても同じではないか。たとえわずかの間であっても、幼い自分を抱いてくれた土地がここであることに変わりはない。
――しかし、休養中のキズナを受け入れるには、誰かを雇わなきゃな。
現役の競走馬でも、運動や普通キャンターぐらいなら将馬にもできる。が、これからは所要で外に出ることも多くなるだろうから、そんなときにあれほどの馬をポツンと置いておくのは不用心すぎる。
どうしようかと思案していると、敷地に赤いBMWが滑り込んできた。
降りてきた田島夏美は、少し口を尖らせ怒ったような顔をしている。
――そうか、夏美さんに……。
ここで一緒に暮らしてもらえるよう、頼んでみようと思った。
*
2014年春、第81回日本ダービーのファンファーレが鳴った。
15万を超える大観衆が見つめるなか、18頭の出走馬がゲート入りを始めた。
キズナ、マカナリー、ヴィルヌーヴの三強はスムーズに入り、最後にトライアルの青葉賞を圧勝した、スリヨン鞍上のスパイダーが大外枠に入った。
ざわめきが消え、場内を静けさが支配した瞬間、ゲートがあいた。
上川を背にしたキズナは、いつもどおりゆっくりとゲートを出た。少しずつストライドをひろげ、本来のリズムで背中を伸縮させるようになったときには最後方の位置取りになっていた。
外埒の下から見守っていた真子の前を駆け抜ける芦毛の馬体は、強い陽射しを受けて、トモのあたりが茶色がかって見えた。
出走馬のなかで一番体重が軽いのに、ほかのどの馬よりも大きなストライドで、涼しげな顔をして走っている。
自分が望んでいることをなかなか伝えてくれなかったキズナが、今、ひとつだけ、大好きなことをしてみせてくれるようになった。
それは、速く走ることだった。いや、速く走って、自分を大切にしてくれる人々を喜ばせることだった。
そんなキズナの姿を見つめていると、真子の目に、自然と涙があふれてきた。(了)
▼登場する人馬
上川博貴……かつてのトップジョッキー。素行不良で知られる。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の3歳牡馬。父シルバーチャーム。
大迫正和……キズナを管理する、美浦トレセンのカリスマ調教師。
後藤田幸介……大阪を拠点とする大馬主。キズナのオーナー。
杉下将馬…杉下ファーム代表。2010年に牧場を継いだ20代前半。
田島夏美…将馬の高校時代の先輩。馬を扱うNPO法人代表にして、由緒ある神社の禰宜。
内海真子……大迫厩舎調教助手。キズナを担当。安藤美姫に似ている。
マカナリー……クラシック候補のディープ産駒。
ヴィルヌーヴ……クラシック候補の関西馬。
※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ
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