◆明治から昭和初期にかけての競馬に関する新事実
当コラムの昨年末最終回に「とある企画へ向けたプロジェクトが進行中です」と書きました。その時は内緒にしていた企画ですが、ここで発表させていただきます。
東京競馬場にあるJRA競馬博物館で「競馬と鉄道展」を開催することになりました! 今、開かれている「うまたびumatabi〜競馬場への招待〜」の関連展示。その案内リーフレットや博物館のホームページに表記があるので、お気づきの方もいらっしゃるはずです。
実はこれ、私が企画を持ちかけて実現しました。1年半ほど前、週刊競馬ブックに、競馬場と鉄道駅の関係についての記事を寄稿したのがきっかけでした。
ご存知のように、競馬と鉄道の間には切っても切れない深い縁があります。何しろ多くの競馬ファンが鉄道を使って競馬場に通っているわけですからね。その関係をあれこれ調べていたらおもしろくなっちゃって、事ここに至った次第です。開催期間は4月22日(土)から8月27日(日)まで。詳しい内容は近くなったらまたご案内しますが、ぜひご来場いただきますようお願いいたします!
さて、ここからはちょっとマニアックな話。競馬と鉄道の関係を調べているうちに、新たに見つかったことがいろいろあります。とくに、馬券発売を認める競馬法が成立する前、明治から昭和初期にかけての競馬に関して、次々に“新事実”が見つかりました。
例えば、1906年(明治39年)に開催された總武牧場臨時競馬會。千葉の松戸競馬場で行われたこの競馬は今の中山競馬のルーツにあたるものですが、実は、上野・不忍池競馬の興行主が仲間割れを起こし、2つに分かれたグループのうちの一派が始めたものだったそうです。もう一派の千代田競馬會は、今の足立区千住大橋近くで競馬を開催。ところがこちらは、馬券発売が地元警察に認められず、あっという間に解散を命じられてしまいました。もしこの千住競馬が続いていて、松戸競馬がダメになっていたら、今の中山競馬はなかったかもしれません。
また、1922年(大正11年)11月に全國競馬大會、翌23年1月に日本民衆競馬大會と銘打った競馬が、いずれも東京・洲崎埋立地の小栗飛行場で行われていました。いろいろ調べてみると、同飛行場は、アメリカの飛行学校を卒業し飛行教官となった小栗常太郎という人が、1920年に洲崎で開校した小栗飛行学校の飛行場。その平らな土地を利用して競馬が開催された、と思われます。
ちなみに、競馬開催の新聞広告には「入舟町停留所下車」とあったので、これをもとに調べると、その場所はどうやら今の江東区塩浜2丁目付近、JR京葉線が地下から地上へ出てくるあたり、だったようです。
なんていうことを発見してしまうと、そのまた先のことを調べたくなる。どうも私は、日本競馬史の深みの中にハマっちゃったような気がします。