「ないのが当たり前」と思っていたものが、ある日ひょんなことから見つかったらどうなるだろうか。
それが、自分自身に関するものであれば、当然、驚いたり、戸惑ったりするだろう。場合によっては感激したり、逆に激怒することもあるかもしれない。
例えば、子供のころ住んでいた家が、引っ越したあと解体されたとする。居間の柱に自分と弟の背の高さの傷をつけ、名前と日付を書いた思い出がある。その柱が、50歳を過ぎてからぶらりと入ったアンティークな内装の喫茶店の柱として使われているのを偶然見つけたとしたら、どうだろう。
そのまま平然とコーヒーを飲みつづけることは、少なくとも私にはできない。
その喫茶店が、家があったところに近い土地なのか、遠く離れた土地なのかによって、感じ方は異なるだろう。なので、ここでは、家があったのは札幌、その柱が使われていた喫茶店は東京ということにしたい。
私なら、まず、その喫茶店の経営者がどんな人か確認する。カウンターでサイフォンを磨いている自分と同年配のマスターらしき男に、この喫茶店がいつ開店したのか訊ねる。いや、その前に、トイレに行くふりをして、ほかにも解体した民家の廃材を利用したとおぼしき柱や建具などはあるかチェックするかもしれない。
ミステリーとしては、文字が刻まれている柱などはほかになく、私の弟は早くに世を去っている――という設定のほうがよさそうだ。
私はマスターに話しかける。
「この柱、どんないきさつがあってここで使われるようになったんですか」
マスターは怪訝そうに応じる。
「居抜きでここを使わせてもらっているんで、よくわからないんです」
「そうなんですか」
「それはそうと、前にお客さんと同じことを訊いた人がいましたよ」
私は驚いて目をぱちくりさせる。それが誰なのか、見当もつかない。
そのとき、出入口のドアベルがかろやかな音を立て、別の客が入ってきた。
20代にも40代にも見える、年齢不詳の細身の女だった。
マスターが私に耳打ちする。
「あの人です、柱のことを訊いてきたのは」
そっと彼女のほうを窺った。見知らぬ女だった――。
思いつきで書き出したので、この話の先は考えていないのだが、こうした「もしも」の競馬版の取材を、今しているところだ。
明治32(1899)年、オーストラリアから輸入された牝馬のミラは、競走馬として素晴らしい成績をおさめた。さらに、繁殖牝馬として何頭もの優れた産駒を残し、その末裔がいくつもの大レースを制している。
その「ミラ系」の馬には、初代ダービー馬ワカタカ、昭和46(1971)年の二冠馬(皐月賞、ダービー)ヒカルイマイなどがいる。
しかし、ミラの血統書がないからという理由で、ミラの末裔は「サラ系」のレッテルを貼られ、血統不詳の馬として分類された。
サラ系の牝馬に7代つづけてサラブレッドの種牡馬を配合して生まれた産駒はサラブレッドとして認められる。だが、前記のワカタカはミラの3代下(曾孫)で、ヒカルイマイは5代下だったので、サラ系とされた。
サラ系の種牡馬を配合して生まれた仔馬は、相手の牝馬が純粋なサラブレッドであってもサラ系になってしまう。父系が『ジェネラルスタッドブック』でルーツを辿れない出自不明とみなされるのだ。
写真で見ることのできる体型や、高い競走能力から、ミラはほぼ確実にサラブレッドだった。
また、ヒカルイマイの皐月賞とダービーの勝ち方はディープインパクト級と言ってもおかしくないほど強烈だった。しかし、種牡馬としては前述の理由から不遇で、いい繁殖牝馬に恵まれず、付けた頭数も少なかった。
このように、日本の競馬史において「ないのが当たり前」とされているミラの血統書が、今になって見つかったとしたら、どうなるだろう。
ミラ自身も、末裔のワカタカやヒカルイマイも、遡って純粋なサラブレッドと認められるのだろうか。
もし、当時からミラがサラブレッドと認められていれば、ミラ系の繁栄は、小岩井の牝系に匹敵するほどだったかもしれない。
さらに、ヒカルイマイがサラブレッドと認められていたとしたら、その後のクラシックの勝ち馬も、日本の血統体系も、大きく変わっていたかもしれない。
120年前に日本にわたってきた牝馬の血統書が出てきて、本物と判定されたことによって、得をしたり、逆に、不利益をこうむる人はいるのだろうか。
大きな恩恵にあずかりそこねた人々は確かにいる。今なお、その人々と利害を共有する人がいたとしたら、どんな思いでこの報せを受け止めるだろうか。
そうしたところを出発点にして、また新たなミステリーを書こうと思っている。
雲をつかむような話なので取材先を困惑させてしまうのだが、それでも、歴史のベールを一枚ずつはがしていく作業は、思っていた以上に楽しい。
本稿を書き終えたら、3軒目の取材先を訪ねる予定だ。
今回も、とりとめのない話になってしまった。