20代のころのシャルロット(提供:R.Oさん)
「もう二度と名前が替わることはありません」
長寿で脚光を浴びるようになったシャルロットとR.Oさんが最初に出会ったのは、1989年。オーナーのいる自馬として、シャルロットとは別の名前でR.Oさんの入会したクラブに預託されていた。オーナー付きの馬は、クラブ所有の練習馬よりも待遇が良く大事にされていた。だがその2年後、オーナーがシャルロットを手放して、新しい馬を購入した。まるで車を買い替えるように。それを知ったR.Oさんは、驚き、信じられない気持ちになった。
それまで自馬として大切にされてきたシャルロットは、突然クラブの練習馬となった。それを知ったR.Oさんは、馬をまるでモノのように扱う人間の身勝手さに驚き、信じられない気持ちになった。不憫に思ったR.Oさんは、できる限りシャルロットの世話をした。夏に弱かったため、レッスンが終わって、次のレッスンまでの少しの時間で水をかけて馬体を洗うなど自分ができる範囲でシャルロットに愛情を注いだ。
そんなある日、ある女性がクラブを訪れた。その人はシャルロットが競走生活にピリオドを打って乗馬になった時の最初のオーナーだった。かつての愛馬との再会を喜んだその女性は、再び自分の馬とするべくシャルロットを買い取り、北関東のクラブへと移動させた。1995年のことだった。R.Oさんは寂しくもあったが、それ以上に最初のオーナーのもとで一生安心して暮らせるであろうことが嬉しくて、シャルロットを喜んで送り出したのだった。
だがその生活も1年と持たなかった。自分に馬が懐かないから引き取ってほしいと、そのオーナーからR.Oさんに連絡が来たのだ。だがR.Oさんには既にファーストワンダーがいた。何とか考え直してほしいとオーナーを説得したが、覆すことはできなかった。またしてもオーナーの心変わりで、路頭に迷うことになったこの先のシャルロットの馬生を思い、どうか命が繋がってほしいと祈るしかないような状況だった。
だがシャルロットには運があった。関東圏の乗馬クラブで練習馬になっていたのだ。その事実を馬仲間から伝え聞いて会いに行った日のことを、R.Oさんは今でも鮮明に覚えている。
「日が暮れた午後7時頃だったと思います。『ローリーロック』という馬名になったシャルが、真っ暗な馬場で黙々と部班レッスンをしていました。右後肢の白さがライトに浮かび上がって、すぐにシャルだとわかりました。自馬でいられたら何の心配もなく、優雅に穏やかに暮らせていたはずが、こんなに遅い時間まで働く姿を目にして、切なさに胸が詰まりました。その一方で、いる場所を与えられたことが本当に有難く、無事な姿を見られた嬉しさで一杯でした」
「右後肢の白さで、すぐにシャルだとわかりました…」(提供:R.Oさん)
R.Oさんは乗馬を引退した後は、必ずシャルロットの面倒をみると決めていた。
「レッスンを終えたシャルに、必ず迎えに来るから、あともう少し頑張ってねと、そう約束して別れました」
それから7年の歳月が流れた。シャルロットは練習馬としての役目を立派に務め上げ、ついにR.Oさんのもとへとやって来た。
「人間の身勝手に翻弄され、何度も名前を変えて、それでも自分の力で生き抜いてくれたシャルを誇らしく思いました。そしてまだ現役を続けられる健康な状態で引退させてくださった乗馬クラブには感謝しかありませんでした。私はシャルにこう誓いました。今日からあなたの名前はシャルロットです。もう決して、二度と名前が替わることはありません」
こうしてR.Oさんの愛馬となったシャルロットは、2003年に終の棲家となるスエトシ牧場へと移動し、そこに暮らす仲間たちと穏やかな日々を過ごすようになった。
「馬添いが悪い馬とでもシャルは一緒に放牧ができましたし、ホップやファーストワンダーとも家族だと理解できたようで、すぐに仲良くなりました」
だが2014年8月26日に5冠馬シンザンの持つ35歳3か月11日というサラブレッドの長寿記録をシャルロットが塗り替えたことで、長寿の馬として多くのメディアに取り上げられるようになった。R.Oさんは自らシャルロットの長寿について発信したことは一度もなかったのだが、気がつけばその名が全国に知れ渡っていたという状況だった。ネットの掲示板などには「名馬シンザンと無名馬を同列に扱うべきではない」など、心ない言葉が並んだこともあった。
元々乗馬を始めたことにより、馬の魅力にどんどん嵌っていったR.Oさんは、競馬には興味がなかった。シャルロットの父が名馬アローエクスプレスだということも、引き取るまで知らなかった。R.Oさんにとっては目の前のシャルロットが大切なのであって、父が誰でも関係ないことであった。
「別に有名になることは望んではいませんでした。ただシャルと一緒に生きていたいという気持ちだけでした。馬の命に順列はなく、どの馬の命も尊いと思っています」
R.Oさんは周囲の喧騒は別次元のことと捉えていた。
「シャルもどこ吹く風で、これまで通りの生活をしていました」
どんな馬とも仲良くできたというシャルロット(提供:R.Oさん)
2016年10月14日には、アングロアラブのマリージョイ(競走馬名スインファニー)の37歳5か月記録も抜いて、軽種馬の長寿記録も打ち立てたシャルロットはまた騒がれたが、R.Oさんとシャルロットはそれに惑わされることなく、相変わらずマイペースの日々を送っていた。心臓も内臓も獣医が驚くほど強かったシャルロットも、徐々に年齢的な衰えは出始めていた。
「亡くなる半年くらい前から、馬場で砂浴びをすると立ち上がれなくなることが多くなりました」
そしてさらに状態が悪化する。
「亡くなる1か月前から腰が悪くなり、体が斜めに傾いてバランスが取りづらくなってきました。獣医には元気な時から毎月診てもらっていて、電気針やヒアルロン酸の注射など、その都度適切な治療をしていただきました。腰がしびれているような状態だと獣医は仰っていましたね」
40歳のその体は、限界に近づいていたのだろうか。8月3日の朝、シャルロットは馬房の中で横たわり、起き上がれなくなっていたところを発見された。寝損ないをして起き上がれなくなる危険を避けるために、馬房では1度たりとも横になったことはない、それほどシャルロットは賢いのだと、R.Oさんは話していた。そのシャルロットが横たわっている。そう連絡を受けたR.Oさんは、急いで駆け付けた。
「亡くなる前日の夜中に横になったのだと思います。疲れてしまったのか、自分から寝たのか、立ったまま眠ってバランスを崩して倒れたのかは定かではありませんが、体にいくつか傷があったので、自力で起きようと何度も頑張ったのでしょう。誰もいなくてどんなに心細かっただろうと、その夜の様子を想像するとたまらなくなります。体力の回復具合を見ながら、時間をあけて3回ほど皆で引っ張って起こそうとしましたが、もはや体力も気力も限界を超えていたのだと思います」
それでも何とか頑張ってほしい、もう1度起き上がってほしいと、R.Oさんは願った。馬体の一方にだけ体重がかからないように、体の向きを何度も変えた。
「体の向きを変え始めて6、7回目くらいでしたでしょうか。それまで苦しそうにしていたのが、静かに目を閉じて穏やかな顔になったのです。私には微笑んでいるようにも見えました。何年間も立ち続けて頑張って頑張って生きてきたシャルが、その緊張感から解き放たれて、安心感に包まれているように見えました。その顔を見て、もうこれ以上頑張らせるのは可哀そうと、次の苦しみが訪れる前に、安らかなうちに最期の時を迎えさせてあげたいと、別れを決心しました」
2019年8月3日17時12分。40歳2か月と20日の間、打ち続けたシャルロットの心臓の鼓動が止まった。その瞬間、突然大粒の雨が地面を叩きつけ、すべての音をかき消した。
「それはシャルの涙であり、先に天に召され、空の上からシャルを守ってくれていた仲間の馬たちの涙でもあったと思っています」
そしてこう結んだ。
「シャルは自分がいなくなったら、私がダメになる、そう思って力の限り頑張ってくれたのだと思います」
電話の向こうから、その悲しみとシャルロットへの深い愛情が伝わってきた。
たくさんの愛を注いでくれたオーナーのもとで天へと旅立った(提供:R.Oさん)
シャルロットを看取っておよそ8か月が過ぎ去ったが、電話取材時には心の整理はなかなかつかないと話していた。そしてつい最近、R.Oさんから届いたメールにはこう書かれていた。
「世の中がすっかり変わってしまい、シャルさんと桜を愛でていた時間がなおさら尊く思えます」
新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、私たちを取り巻く環境や暮らしが激変する中でも、馬たちと紡いできた絆と思い出は永遠にR.Oさんの心の中に生き続けている。馬を簡単に手放す身勝手な人間もいるが、その一方で馬の命が尽きるまで愛情を注ぎ、信頼関係を作り上げる人もいる。どんなに世の中が変わっても、決して崩れることのないものもあるのだと、今回の取材で教わったような気がした。
(了)