7月最後の土・日・月の3日間を東京で過ごしたのは10年ぶりのことだった。
東日本大震災が発生した2011年から去年までは毎年、福島県相馬市と南相馬市で行われる世界最大級の馬の祭「相馬野馬追」を取材していた。私にとって、今年は節目の10回目の野馬追になるはずだったのだが、こんなご時世なので取材を自粛した。
今年の相馬野馬追は、震災の年よりさらに規模を縮小して行われた。すべての行事が無観客で、7月25日(土)には相馬中村神社で出陣式、26日(日)には相馬太田神社で例大祭、そして27日(月)には相馬小高神社で上げ野馬神事(略式の野馬懸)などが行われた。
これら3つの神社での行事に参加する騎馬武者はそれぞれ10名程度に絞られていたので、毎年出陣している多くの騎馬武者たちが参加せずに終わった。神社への立ち入りが制限されていたため、参加しなかっただけではなく、自分の目で見ることすらできなかったのだ。
本稿に毎年登場している小高郷軍者の蒔田保夫さんも、そうして待機することになった騎馬武者のひとりだ。上げ野馬神事が行われた27日、午前8時半から相馬小高神社が立入禁止になると聞いた蒔田さんは、それより早い時間に陣羽織姿で小高神社に参拝したという。私と電話で話したのはその夜のことだった。
「今、家で直会をしていたんですよ」と蒔田さん。ひとりでビールを飲み、それで今年の野馬追を締めくくっていたという。
「これが一年の終わりで始まりという『野馬追基準』も、今年だけはハッキリしない。妙な感覚ですよ」
声が苦笑していた。
同じ小高郷の侍大将・今村忠一さんは、騎馬会幹部として上げ野馬神事に参加した。
「今年は騎馬武者よりもメディアのほうが多かったですね。天明や天保の飢饉のときも途切れなかった野馬追を、今年も、こうした形ですが、つなぐことができました。総大将(相馬行胤さん)の目も潤んでいました。これからもしっかり伝統をつないでいかなければと、よりいっそう強い気持ちになりましたね」
小高郷副軍師の本田博信さんも、自身が飼養する芦毛の中間種とともに上げ野馬神事に参加した。
「実は、七夕の日に父を亡くしまして、今年は参加を見合わせるべきか迷いました。しかし、父は震災の年も野馬追に出陣し、陣頭指揮を取っていました。ならば私もと、参加することにしました」
本田さんの父・本田信夫さんは、五郷騎馬会長をつとめた、相馬野馬追の重鎮だった。
私も、震災の年、多珂神社で上げ野馬神事が行われたとき、話を聞かせてもらったことがあった。忙しいなか、神事で使う道具などについて丁寧に説明してくださった。ご冥福をお祈りします。
また、地方競馬に多くの所有馬を走らせている中ノ郷の前田敏文オーナーも、複雑な思いで野馬追の日を過ごしたようだ。電話の切り際も、「落ちついたらどこかで……、いや、いつ落ちつくかわかりませんが、また」といった感じの、妙なやり取りになってしまった。
発売中の「優駿」8月号にて、「インディ500フォトグラファーが追いかけた相馬野馬追の世界」という8ページにおよぶグラビア特集が展開されている。
撮影した斎藤和記さんは1980年代の終わりからインディカー・シリーズを取材しているという。私も1990年代まではモータースポーツをカバーしていたのだが、いつもインディ500は日本ダービーと日程が重なっていたため行くことができずにいた。が、1996年は日本ダービーが6月2日になって日程が重ならず、5月末、インディアナポリスで取材することができた。そのときに斎藤さんとニアミスしていたかもしれない。インディ500を勝ったのはバディ・ラジアー、日本ダービーを制したのはフサイチコンコルドだった。
「相馬野馬追の世界」の写真はどれも迫力があって素晴らしい。本稿にも登場した、昨年まで甲冑競馬3連覇を達成したテル君こと只野晃章武者の、泥にまみれたカッコいい写真も載っている。
と、ここまで書いたとき、弁護士馬主の白日光さんから電話が来た。『ノン・サラブレッド』を読んだらとても面白かったので、『ジョッキーズ・ハイ』も買い、そちらも読んでくれたという。嬉しかった。先々週の本稿に記したように、白さんと「日本初の名牝」ミラは、セレクトセールを介してつながっているのだ。
本稿がアップされる7月30日はディープインパクトの命日だ。社台スタリオンステーション事務局の徳武英介さんから、「落ちついたらお参りにきてください」と連絡をいただいた。
頑張っていれば、きっといいことがある。
頑張れることがあるだけいいと思って、頑張ろう。