四捨五入すると還暦という年になってから、あとひと月ほどで1年になる。五十代も半ばを過ぎると体のあちこちにガタが来て、歯が浮いて仕事にならない日があったり、膝に水が溜まって病院に行ったりと、思いどおりにならないことだらけで困ってしまう。
まるで、思いどおりにならないことにいかに慣れて糧を得るかがテーマであるかのような日々である。
それだけに、コントレイルが秋初戦の神戸新聞杯をノーステッキで圧勝し、思いどおりの結果を出したことには唸らされた。馬もすごいし、陣営の努力にも頭が下がる。
無敗で来ているがゆえのプレッシャーには、成長に対する期待と同時に、変化に対する恐怖も含まれているはずだ。いくら突出した能力を持っているとはいえ、ライバルたちも夏を越して強くなっている。自分も当然成長しなければならない。しかし、だからといって、急に筋肉がつきすぎても怖いだろうし、気持ちのスイッチの入り方が変わったりしても戸惑うだろう。
負けていないのだから、何も変える必要はないのだろうか。マイナーチェンジの蓄積をしていくにしても、どのくらい、どのようなペースで変えていけばいいのか。無敗でクラシック三冠を制した馬がこれまで1984年のシンボリルドルフと2005年のディープインパクトしかいないのだから、参考データはないに等しい。すべて、自分たちで考え、決断しなければならない。その決断によって競馬史が変わる。陣営が背負わねばならぬプレッシャーは、これからもつづく。
プレッシャー。それを私たちは、どんな場面で感じているのだろうか。
私の場合、例えば、特集の執筆を依頼されたとき「大きな反響のある面白い原稿、期待してまっせ〜」と編集者に言われたら、やはり多少はプレッシャーを感じると思う。
が、それで手足が震えたり、心臓がバクバクして、正常な判断力を失ったりすることはない。書く作業はやり直しが利くし、誰も見ていないところで、自分の好きなようにやればいいだけだからだ。
それよりも、クルマを運転しているとき、ちょっとハンドル操作を誤れば脱輪して転落しそうな細い道を走るときのほうが、よほどプレッシャーを感じる。とはいえ、冷や汗をかいても、パニクって、頭が真っ白になることはない。
やはり、人前で話すときか。テレビの生放送やトークイベントの前などは、手のひらに嫌な汗をかくこともあるし、胸がドキドキすることもある。
そういうときは、自分は物書きなのだから、話が下手でも構わない、と考えるようにしている。滑舌が悪くても、ときどき噛んでも、途中で脱線して何を言っているのかわからなくなっても、物書きとしての自分のアイデンティティを揺るがすことはない、と。
要は、大きな責任を感じなくてもいいように自分をコントロールしているわけだが、それでもプレッシャーが完全になくなるわけではない。
得意なことであれ、苦手なことであれ、人前で失敗したらどうしようと考えてしまう限り、プレッシャーはなくならない。
いずれにしても、やり直しの利かないこと、取り返しのつかないことをする可能性があるとき、人間はプレッシャーを感じるようにできているのだろう。
ここで話は神戸新聞杯に戻る。コントレイルに騎乗し、道中ずっと包まれながらも、直線に入るまで余計な動きをしなかった福永祐一騎手は、彼なりのプレッシャー克服術を身につけているのか。
もし、囲まれたまま脚を余して負けたら、それこそ「取り返しのつかないこと」になっていたはずだが、平然と前が開くのを待ち、進路ができるや、瞬時に馬を反応させた。
ひょっとしたら、プレッシャーを「克服する」という感覚ではなく、感じながらやり過ごすなり、開き直る術を会得したのかもしれないが、ともかく、あの騎乗は見事だったとしか言いようがない。
あの一戦に限らず、コントレイルでレースをするときは、コントレイル(の能力)に対する信頼が福永騎手に自信を持たせ、プレッシャーによるマイナスの作用がないところでプレーできているのだろう。
さて、騎手に関して、最近、驚きながら感心させられたことといえば、ネットで見たオイシン・マーフィー騎手のレース実況の上手さだ。エネイブルが勝った今年のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを埒の外から見ながら実況する姿を「World Horse Racing」の動画で見て、その淀みのなさとコメントの的確さに、思わず笑ってしまった。
双眼鏡もプログラムも持たずにあれだけスラスラと実況するのだから素晴らしい。コロナの影響で観客がいないからできることかもしれない。検索サイトやユーチューブで、「Oisin Murphy commentates」というキーワードで検索すると、そのキングジョージのほか、今年のヨークシャーオークスの実況も聴く(見る?)ことができる。
誰か、日本の騎手で同じことができる人はいないだろうか。