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シンボリとメジロと社台の夢

  • 2012年10月07日(日) 14時20分
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今でこそ日本の競馬は社台の一強だが、昭和の時代にはメジロやシンボリといった強力なライバル牧場がいた。
日本馬の凱旋門賞への挑戦の歴史は、1969年のスピードシンボリによって始まる。
その3年後にはメジロムサシが2頭目の挑戦馬となっている。
両頭ともレースでは大敗を喫したが、この偉大な日本のホースマンによる試みは、日本馬の凱旋門挑戦への礎になっている。
その後、このレースに遠征する日本馬はしばらく現れなかった。

ちなみに、社台が凱旋門賞に初めて生産馬を送り込んだのは2002年のマンハッタンカフェである。
シンボリの初挑戦から33年も遅れをとっているというのは、今の社台の勢いを考えると意外な感じがする。

1964年にパーソロンという種牡馬が日本に導入された。
メジロの北野豊吉氏とシンボリの和田共弘氏が共同で購入した馬だという。
パーソロンはダービーや天皇賞をはじめとした大レースの勝ち馬を多数輩出し、リーディングサイヤーを獲得する。
その産駒の中にはシンボリ牧場産のメジロアサマがいた。

引退後のメジロアサマは種牡馬となったが、初年度の受胎馬ゼロで種牡馬失格の烙印を押される。
しかし、メジロの北野氏の情熱によって、再び種牡馬としてのチャンスを得て生涯19頭の産駒を残すことに成功した。
アサマの血はその後ティターン、マックイーンへと繋がれ、親子3代に渡る天皇賞制覇という輝かしい記録を打ち立てることになる。
ファンの期待と興味はさらなる世代での天皇賞制覇へと続いたが、2006年にマックイーンが死亡し、唯一中央に残る産駒は8歳のホクトスルタンのみとなってしまった。
追い討ちをかけるように、メジロ牧場は解散という運命を辿り、昭和の競馬で一時代を築いた名門の灯りがひとつ消えていった。

ところが、社台産のステイゴールドによって、母の父としてマックイーンの血が再び注目されるようになる。
この配合で生まれたオルフェーヴルの血統には、昭和の日本競馬を支えた、シンボリとメジロと社台の情熱がすべて詰まっている。
まさに、生産界のオールジャパンが長年掛けて作り上げた血統なのだ。

その馬がついに日本馬による凱旋門制覇の夢に大きく近づいた。
凱旋門賞の歴史に、オールジャパンの名を刻むことができるのか。
スピードシンボリから43年。
運命の時間は、まもなくやってくる。

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ケイバにどっぷりの人です。気の向くままにコラムというか、思ったことを書き綴ることがあります。現在、ブログは休眠中。しばらくは、ここのコラムを使って忘れた頃に書き綴る予定です。ブログ...

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