▲福永騎手のバレット、坪田幸子さんにインタビュー(撮影:桂伸也)
25日のサウジアラビアで、ラストライドを終えた福永祐一騎手。2鞍に騎乗し、最終騎乗は3着。勝利とはいかなかったものの、翠夫人も見守る中で、無事に騎手人生に幕を下ろしました。
27年間の騎手人生の中で、実に16年という長い間バレットを務めた坪田幸子さん。福永騎手の唯一無二の右腕として、厚くサポートしてきました。
大反響のお手紙コラムに続いては、坪田さんのインタビューを通して、福永騎手の素顔や騎手人生の中で見せた様々な変化に迫ります。
(取材・構成=不破由妃子)
逃げ場をなくして、自分で自分を追い込んで…
私が祐一さんと初めてお会いしたのは、2003年のプロキオンSの前の週、確か6月20日の金曜日だったと思います。
私は当時、21歳。就職活動に明け暮れていた時期でした。就職セミナーを通してテレビ番組の制作会社でディレクターをしている方と知り合い、「うちでアルバイトせえへんか?」と声を掛けていただいたのがすべての始まりです。
ゆくゆくはその制作会社に就職できそうな雰囲気だったので、心のなかで「これでもう就活しなくていい! やった!」と思い、私はふたつ返事。しかし、アルバイトを始めて3日目、その方から「実は最近、こういう会社を立ち上げたので、そっちも手伝ってほしい」と誘われたのが、祐一さんも所属していたジョッキーのマネージメント会社だったのです。今ならわかりますが、きっと最初からそのつもりだったのでしょう。
「これを断ったら、制作会社への就職もなくなるかも。もう就活したくない!」と思った私は、「はい」とうなずくしかありませんでした。まさかそのときの「はい」が、私の人生を大きく変えることになるとは…。今となっては、就活に苦労して本当によかった(笑)。
とはいえ、競馬といえば“武豊さん”と“オグリキャップ”しか知らなかった私。当然、ジョッキーのマネージメントと言われてもピンとこなかったし、祐一さんの存在もまったく知りませんでした。
▲最初は福永騎手の存在も知らなかった(撮影:桂伸也)
そんな中、社長から「明日の夜、福永祐一さんと食事をするから、坪田も顔を出して」と言われたのが、冒頭の2003年6月20日。その週末、さっそく社長に連れられて初めて競馬場に行ったところ、金曜日の夜に会った“あの人”が大きなレースを勝っていて(2003年プロキオンS・スターリングローズ)、すごく高揚したのを覚えています。