JRAのルール改正により今年の3月1日から、見習騎手の負担重量の減量期間が、免許取得後3年未満から5年未満へと延長されました(共に勝利数100回以下)。それに伴い改めて減量が適用されることになった原田和真騎手にスポットをあてます。新ルールの恩恵も受け、デビュー5年目にしてキャリアハイの13勝をマーク(10月5日現在)。今秋ますます注目の、若手騎手の素顔に迫ります!
(取材・文/大薮喬介)
少年時代は空手大会で優勝する逸材
―― 一般家庭で育ったとお聞きしたのですが、どうして騎手を目指すようになったのですか?
原田 父が競馬好きだったんです。その父がいくつか事業で失敗をして、家がそれほど裕福ではなかったというのもあります。中学に上がる頃には公立高校に行くか、何か仕事をするか決めておけと親には言われていました。母が内職をしたりしていて、僕も手伝ったりしていたんです。まぁ、そういう家庭環境ということもあって、家を出たいなと思っていたんですよ。だから、寮生活ができるところがいいなと。
――それで騎手を目指したわけですか、内職を手伝っていたそうですが、どんなことをしていたんですか?
原田 僕が手伝ったのは、化粧品を入れる箱を組み立てていました。だから、箱が部屋中に山積みでしたよ。
――ご兄弟はいらっしゃるんですか?
原田 兄と妹がいます。真ん中なので、自由というか、親も放任していましたね(笑)。兄はよく怒られていましたけど、僕はあまり怒られていなかったんです。
――少年時代は何かスポーツをしていたんですか?
原田 空手を習っていました。僕は小学校に上がる前から小さくてガリガリだったんです。それで、身体を丈夫にする目的で両親に道場に連れられていったのが最初です。正直、僕は行くのが嫌だったんですよ。だから、よく泣いていましたね(苦笑)。京都の道場に通っていたんですが、小学校に行くようになってから大阪に引っ越しても同じ道場で習っていました。
――いつ頃まで空手を習っていたんですか?
原田 親が「大会で優勝したら辞めてもいい」と言っていたのですが、結局、小学6年までやっていました。
――優勝できなかったんですね(笑)。
原田 いや、小学5年生の時に「千葉真一杯」で優勝したんです。しかも、MVPに選ばれたんですよ。
――スゴいですね! じゃあ、それでもう1年続けようと。
原田 違うんです。実はゴッツい優勝トロフィーをもらうんですが、それを翌年まで保持して、返さないといけなかったんです。しかも、シード権もついて(苦笑)。
――ああ、それで続けないといけなくなったんですね。
原田 そうなんです。僕は優勝した時点で気持ちがなくなっていたので、練習もそれほど行っていなかったんですね。そのせいか、翌年の大会では試合中に足の指を骨折して、そのまま辞退という結末に(苦笑)。
――なるほど(笑)。でも、優勝するまでは一生懸命に練習していたんですよね?
原田 はい、辞めたかったからなんですけど。痛いのが嫌だったんですよね。それに僕は冷え性だったので、冬の道場が嫌で嫌で…。僕が通っていた道場はすごく厳しいところで、冬でもアンダーシャツが禁止で、下も畳ではなくて板だったので、もう本当に冷たくて。なんでこんなことをしているんだろうって、ずっと思っていました(苦笑)。
なんでこんなことをしているんだろうって、ずっと思っていました(苦笑)
――本当に嫌だったんですねぇ。ただ、大会で優勝するくらいだから、運動神経はよかったんじゃないですか?
原田 人並みにはあったと思います。でも、足は今のほうが速い気がしますね。
――どういうことです?
原田 小学校や中学校ではかけっこをしても結構負けていたので、自分は速くないと思っていたんです。でも、この間、運動会みたいなもので走ったら、ぶっちぎったんですよ。それでちょっと計ってみたら、50m6秒前半で。しかも、最後は流していたので、「あれ、足が速くなったかも」って(笑)。
(次回へつづく)