▲ netkeiba Books+ から『有馬記念 馬券教本』の1章、2章をお届けいたします。
暮れの大一番、有馬記念の歴史は波乱の歴史でもある。過去にさまざまなタイプの馬が波乱を演じてきたが、ここではヒモ穴ではなく、有馬記念を勝って波乱の立役者となった5頭にスポットを当てた。当時の時代背景やその競走生活を振り返ることで激走の条件、ヒントが見つかれば幸いである。ぜひとも有馬記念の馬券攻略に役立てていただきたい。 (文:木村俊太)
(写真:下野雄規、JRA、netkeiba)
1章 有馬記念で“ツケ”を回収してくれた5頭の穴馬
年の瀬になると、なぜか毎年、慌ただしい気持ちになる。世間一般、年の瀬はみな、慌ただしくなるものだが、物書きや編集の仕事をしていると「年末進行」という非常に慌ただしいスケジュールに悩まされる。
最近はネットが中心なので以前よりはだいぶ楽にはなっているが、紙の媒体だとそうはいかない。デザイン会社も印刷所も製本所も、年末年始は休みになって動かない。だから休みに入る前に、年始に出す出版物の仕事をすべて終えておかなければならない。しかも、どの会社も同じことを考えて動くので、デザイン会社、印刷所、製本所に仕事が集中して、普段どおりのスケジュールが組めない。そこで、ただでさえきついスケジュールを、さらに前倒ししてやっていかないと間に合わない。スケジュール自体がまさに綱渡り。これが出版業界恒例、年の瀬の「年末進行」である。
ところで、皆さんは「年の瀬」と聞いて何を思い出すだろうか。一般的には新年を迎える準備としての「大掃除」とか「正月飾り(注連飾り)を飾る」、「年賀状作成」、「お歳暮を贈る」、「お節料理の準備」などというものがあるだろう。人によっては年末年始は「帰省」、あるいは「海外旅行」などといううらやましい人もいるかもしれない。
「クリスマス」を楽しみにしている人もいるだろうし、「除夜の鐘」を撞きに行くのを心待ちにしている人もいるかもしれない。「手帳やカレンダーの準備」をすると「年の瀬」を感じるなんていう人もいるし、筆者の知り合いには「年の瀬といえば、アメ横だろう」などという人もいる。この人は恐らく毎年、大混雑した東京・上野のアメヤ横丁に新巻鮭でも買いに行くのだろう。
ただし、競馬場やウインズ、競馬ファンが集まる酒場などで同じ質問をすれば、「何を今さら」という怪訝な顔をされたあとで、ほぼ同じ答えが返ってくる。もちろん、読者の方々も同様であろう。
「年の瀬? そんなもん、『有馬記念』に決まってんだろ!」
さて、その「年の瀬」だが、そもそもどういう意味なのだろうか。調べてみると、語源は「川の瀬」だという。「川の瀬」というのは深い部分(「淵」)と対になる、川の浅い部分のこと。百人一首にある崇徳院の歌「瀬をはやみ〜」の「瀬」だ。川底が深い「淵」に比べて流れが速く、舟で渡るにしても徒歩で渡るにしても、かなり危険な場所である。
なぜ年末が川の流れの速い危険な場所にたとえられるのかというと、これは江戸時代の売り掛け(ツケ)の習慣から来ているという。江戸時代、商品の売買や飲食店の支払いなどの多くは売り掛け、つまりツケがきいたという。そのツケの支払いは、年末(大晦日)までに支払っておく(ツケを払ってもらう側からすれば回収しておく)のが習わしだった。
それほど裕福ではない江戸の町人たちにすれば、あっちにもこっちにもツケを支払っていたら、それこそ死活問題。すっかり払ってしまったら、それこそ新年のための生活費がままならない。しかし、払わないと借金取りが追いかけてくる。まさに、川の瀬を渡るような危うさだった。
もちろん、ツケを回収する側にとっても死活問題だ。恐らく、仕入れの代金などもツケだっただろうから、仕入れ業者からツケを支払ってくれとプレッシャーがかかったはずだ。お客が代金(ツケ)を払ってくれなければ、店側にとっても死活問題。こちらも、川の瀬を渡るような危うさで年末を迎えていたに違いない。
そんなこんなで、江戸時代の年末は毎年、ツケの支払いを巡って壮絶なバトルが繰り広げられていたという。
さて、有馬記念である。こういっては失礼だが、今年一年、JRAという「お得意さん」にツケをしこたま溜め込まれ、回収できていない諸兄姉も多くいらっしゃるのではないだろうか。いや、かくいう筆者もそのひとり。ここはひとつご一緒に、年の瀬にしっかりとツケを回収しようではありませんか。もし大穴馬券でも取れた日には、ツケも一気に回収できるかもしれない。
というわけで、前置きがすっかり長くなってしまったが、ここでは過去に有馬記念で大穴を開け、年の瀬の売掛金回収に一役買ってくれた歴代の馬たちを紹介していきたい。「穴馬」の定義が難しかったが、勝ち馬(1着馬)のなかから人気薄の馬を選んだ(連勝式の大穴馬券に貢献した2着馬は除外した)。「人気薄」の定義もまた難しかったが、便宜的に16頭の半分の8番人気以下とし、かつ、あまりに昔の馬は除外した。
この基準で選ばれた穴馬は5頭。メジロデュレン、ダイユウサク、メジロパーマー、マツリダゴッホ、ゴールドアクターだ。年代の古い順に紹介していく。まずは、メジロデュレンから見ていくことにしよう。
なお、念のために断っておくが、「有馬記念は『穴馬』が来る」などという大胆予想をしているわけではないことをご理解いただきたい。あくまでも過去の「穴馬」を紹介する読み物、そして有馬記念で大穴が出る際の馬券的教本として楽しんでいただければ幸いである。
(2章につづく)
▲ 多くのファンで埋め尽くされた中山競馬場
第2章 不当な低評価とアクシデントで生まれた“必然”の勝利 〜メジロデュレンの場合〜
穴馬が来るパターンには、大きく2つがあるように思う。1つは「実力馬の過小評価」。本来は力があるにもかかわらず、近走の成績などから過小評価されてしまっているケースだ。もう1つは「アクシデント」。例えば、大本命馬が大きく出遅れたり、落馬したり、故障によって競走中止したりといったケースだ。
1987(昭和62)年の有馬記念はこの2つの合わせ技、しかも「アクシデント」までダブルで起こってしまったという、非常に稀なレースだった。
このレースでの1番人気は、この年の皐月賞(GI)、菊花賞(GI)の2冠を制しているサクラスターオーで単勝は4.0倍。2番人気は、前走ジャパンC(GI)で日本馬最先着の3着に来ている牝馬のダイナアクトレスで、単勝4.6倍。3番人気はこの年のダービー馬メリーナイスで、単勝4.9倍だった。ただ、単勝オッズを見てわかる通り、その差はわずか。実際、前日発売の段階ではメリーナイスが4.1倍の1番人気。サクラスターオーが4.8倍の2番人気。ダイナアクトレスは5.4倍の3番人気と、上位人気馬の支持は割れる型になっていた。これに、この年の桜花賞(GI)、オークス(GI)の牝馬2冠を制し、エリザベス女王杯(GI)(当時は4歳馬=現3歳馬限定)2着のマックスビューティが4番人気で続き、ここまでが単勝1ケタ人気だった。
さらには、前年のダービー(GI)と有馬記念を制しているダイナガリバー、秋の天皇賞(GI)2着のレジェンドテイオー、エリザベス女王杯(GI)を勝ち、マックスビューティの牝馬3冠を阻止したタレンティドガール、前年の春の天皇賞馬クシロキングなど、まさに有馬記念らしいオールスター戦の様相を呈していた。
そんななか、前年の菊花賞馬でありながら、10番人気に甘んじていたのが本稿の主人公メジロデュレンだった。1月の日経新春杯(GII)3着ののち、長期休養を挟んで、10月のカシオペアステークス(オープン)5着、鳴尾記念(GII)10着と振るわず、休み明け3走目でこの有馬記念に臨んできた。
前走の敗因はハッキリしないが、馬体重がプラス12キロと重めが影響したことは否めない。成長分があるとはいえ、その前のカシオペアステークスでもプラス6キロ、さらに日経新春杯は菊花賞からプラス12キロ(菊花賞もプラス6キロ)と1年ちょっとのあいだに30キロ増、1986年6月のなでしこ賞(400万下)を勝ったときの430キロと比べると、およそ1年半で44キロも増えている。
この馬体重については陣営も気にしていたようで、池江泰郎厩舎の青木健二調教助手は、レース前、こう述べている。
「(前走時)重いとは思っていたが、計量して12キロ増と聞かされたときには驚いた。育ち(成長期)にかかっているわけではないのに。ビシビシ追っていてああだから…」
ただ、調子のよさには手応えを感じていたようだ。
「乗っていてもわかるんですが、ここにきて日一日とよくなっていますね。菊花賞を勝ったときもこうでした」(青木調教助手)
この有馬記念での馬体重は、マイナス14キロの460キロ。菊花賞を勝っている実力馬が、前走敗戦の原因のひとつである馬体増を克服し、さらに調子を上げていることに注目すれば、馬券的に「残す」という選択肢も当然あったはずだ。だが、多くのファンは「切る」という選択をした。上位人気馬があまりにもキラキラ光って見えたからだろう。
もうひとつ、これはこの当時はまだ誰も知る由もなかったことだが、のちにメジロデュレンは「歴史的名馬の兄」、「兄弟菊花賞制覇」としても語り継がれることになる。メジロデュレンは母メジロオーロラの初仔。メジロオーロラはメジロデュレンを産んだ4年後、メジロティターンを父とする、のちにメジロマックイーンと名付けられる芦毛を産んでいる。メジロマックイーンは有馬記念を勝っていないが、宝塚記念を勝っているし、秋の天皇賞でも1位入線していることを考えれば、血統的に距離が短すぎるということはないだろう。
さて、レースである。1つ目のアクシデントはゲートが開いた直後に起こった。3番人気のダービー馬メリーナイスが落馬。根本康広騎手は地面に叩きつけられ、意識を失った。すぐ隣の枠にいたタレンティドガールの蛯沢誠治騎手はレース後、こう語っている。
「(メリーナイスが)1完歩目でつまずいた。そのとたん、根本は消えていた」
レースは2枠3番レジェンドテイオーが逃げる展開。そのあとを1枠2番のミスターブランディが追う。2頭の逃げ馬の競り合いでハイペース必至かといわれていたが、ミスターブランディが2番手に控えると、先頭のレジェンドテイオーはペースをグッと落とし、予想外のスローペースとなった。
向正面から3コーナー手前あたりで、ようやくペースが速くなる。その直後、2つ目のアクシデントが発生する。1番人気のサクラスターオーが突如、失速。競走を中止したのである。
じつはこのアクシデントが、結果的に10番人気のメジロデュレンに有利に働くことになる。レース後、メジロデュレン騎乗の村本善之騎手は「ボキッという音が聞こえてスターオーが止まったので、前が開いた」と語っている。手応えも十分。スローペースで先行馬が粘る展開のなか、外から一気にまとめて差し切り、メジロデュレンが有馬記念を制した。なお、故障したサクラスターオーは種牡馬としても期待されていた馬だったが、その後の懸命の看病も実らず、およそ半年後に命を落としている。
10番人気の差し切り勝ちに、ファンはもちろん、陣営も驚きと戸惑いを見せた。鞍上の村本騎手が「菊花賞馬の意地を見せつけたいとは思ったが、まさか…」と語れば、池江調教師は「ファン投票(8位)で選ばれなければ、あるいは(挑戦を)あきらめることも考えていた」と述べた。
そもそも出走自体、陣営のなかでも意見が分かれていた。メジロ牧場の北野雄二牧場主は、追い切り後、「あれ(出走)は、おふくろ(北野ミヤオーナー)と池江(調教師)が決めたこと。来春の天皇賞のメドが立てばそれで十分」と語っていた。その北野牧場主はレース後、「いやぁ、私もここまでよくなっているとは判断できなかった」と、前言撤回とばかりに照れながら頭を掻いた。
単勝2,410円、枠連は4-4のゾロ目で16,300円だった(この当時、馬連の発売はなし)。
「近走凡走でも、調子を上げていたGI馬は軽視することなかれ」と教えてくれたメジロデュレンは翌年も現役を続けたが、春の天皇賞(GI)3着が最高。有馬記念5着を最後に引退。種牡馬となったが、目立った活躍馬を出すことなく、1994年を最後に種牡馬を引退。2009年、老衰のため死亡した。
1987年有馬記念
(続きは
『netkeiba Books+』 で)
- 有馬記念 馬券教本 波乱の歴史から読み解く穴馬激走の法則
- 第1章 有馬記念で“ツケ”を回収してくれた5頭の穴馬
- 第2章 不当な低評価とアクシデントで生まれた“必然”の勝利 〜メジロデュレンの場合〜
- 第3章 関係者のコメントが予言していた好調馬の大駆け 〜ダイユウサクの場合〜
- 第4章 脚質と展開がハマった実績馬の逃走劇 〜メジロパーマーの場合〜
- 第5章 コースの“鬼”が見せた一世一代の快走 〜マツリダゴッホの場合〜
- 第6章 「勝ち癖」でつかんだグランプリホースの称号 〜ゴールドアクターの場合〜
- 第7章 有馬記念で“ツケ”を回収するために大切なこと